竹書房文庫から11月に発売されたSF小説『ダリア・ミッチェル博士の発見と異変』を読み終えたので、感想を少し。
この作品は「2028年に出版されたノンフィクション本」という体裁を取っていて、内容もさまざまな関係者へのインタビューや公的記録、個人が記した日記など(を装った文章)で構成されています。その目的は、2023年に起きたある事件の顛末を描くこと。映像作品の世界には、フェイクでありながらあたかも本物のドキュメンタリーのように映像を綴る「モキュメンタリー」という手法がありますが、それを文章で表現したような体裁になっています。
では2023年に起きたのはどのような事件だったのか。前述の通り、本書は2028年に出版されたという体になっている、つまり読者はみなその事件についてある程度の知識を持っている前提になっているため、冒頭で全容がネタバレされます(あくまで2021年を生きている私たちにとってのネタバレ、ということですが)。「前書き」の最初の2ページで得られる情報だけをまとめてみても、こんな感じ:
ということで、要は謎の異星人(作品内では「優越者」と呼ばれています)によって引き起こされた「上昇」と「終局」を描くというのがこの作品のすべてになります。以上。
……というわけにはもちろんならなくて、この大筋以外にも、SF作品として読者を楽しませてくれるプロットが散りばめられています。そもそも優越者は、なぜこのような大惨事(「終局」後の世界は社会が大きく後退しているという描写がなされており、その意味で本書は一種のポストアポカリプス作品と言えます)を人類にもたらしたのか。消えた上昇者たちはどこへ行ったのか。他にもいくつかの伏線があり、「終局」というあらかじめ予定された結末に向けて、ストーリーを盛り立ててくれています。
そしてもうひとつ。本書の魅力として、現在の社会をリアルに描いている点を挙げておきたいと思います。
モキュメンタリー風の作品なので、これはある意味で当然の話ではあるのですが。しかしリアル感を出すために挿入される社会現象や小道具のチョイスが上手く、個人的には、一連のSF的な要素を除けば「2021年に起きた事件のノンフィクションですよ」と言われても信じてしまいそうなほどでした。
たとえば。パルスコードによって強制的にアップグレードされた「上昇者」たちは、非上昇者から当然のように差別を受けるのですが、それによって生じた社会的混乱の程度は、「上昇」以前に社会的分断が大きかった国々ほど重症だったことが説明されています。また上昇は政府の陰謀だという陰謀論を唱える人々や、そうした陰謀論をまき散らすデマサイト、さらにはディープフェイクを使った偽動画で上昇者を攻撃する人々まで現れ、悲惨な事件が起きたことが描かれます。他にもダークウェブやダークツーリズム、情報公開におけるマーケティング戦術などなど多様な小道具が登場し、「確かに現実に『上昇』が起きたら、こんな反応が出てくるだろうな」という気にさせられます。
もちろんそんな社会的テーマを読み取らなくても、娯楽作品として楽しめる一冊になっています。読後の余韻は……誰目線に立つかによって変わる気がする。個人的には、「非上昇者としてポストアポカリプス世界に取り残された人間」という目線で読み終えたので、何とも言えない虚しさを覚えたのですが。ただ「訳者あとがき」にあるように、「読後感は意外なほど明るい」と感じる人も多いかもしれません。
お馴染みPew Research Centerが、人々の「コンピューターアルゴリズムによる自動化」に対する態度に関してアンケート調査を行い、結果を発表しています:
■ Public Attitudes Toward Computer Algorithms (Pew Research Center)
いろいろ面白い結果が並べられているのですが、たとえば:
とのこと。また主なアルゴリズム活用に対する賛否について、以下のようにまとめらています:
履歴書のスクリーニングに57%の人が反対、面接の評価には67%の人が反対ですか。これらは日本でも事例が増えてきている領域で、いろいろニュースも出ています:
■ リクルート、AIにエントリーシートを採点させる真の狙い(ITmedia)
■ サッポロビール、新卒採用にAI導入 エントリーシート選考時間40%削減(ITmedia)
■ 吉野家、AIがアルバイト面接(日本経済新聞)
個人的にこういったAI導入は、人間による恣意性や判断の乱れを排除できるという点で望ましいと感じていたのですが、逆に「AIによる判断は不公平であり、人間に評価してもらいたい」という感覚が根強いことを、上記のPewのリサーチは示しています。
もしかしたら、「米アマゾンが導入した採用AIが女性差別をしていた」という最近のニュースも影響しているのかもしれません。企業にとっては採用プロセスの効率化につながるAI導入ですが、採用される側の受け止め方にも配慮する必要がありそうです。
自殺したはずのアドルフ・ヒトラーが死に際にタイムスリップし、現代のドイツで芸人として人気を博す――という荒唐無稽な小説『帰ってきたヒトラー』。2012年にドイツで出版されると、世界中で話題となり、日本でも2014年に邦訳が発行されました。そして2015年に待望の?映画化。ドイツ国内ではディズニー映画『インサイド・ヘッド』を破るほどの成功を収めました。その映画『帰ってきたヒトラー』がいよいよ6月に日本公開されます。
この映画の試写会に参加してきましたので、簡単に感想を。ちなみに原作の方の感想はこんな感じ:
■ 【書評】『帰ってきたヒトラー』(シロクマ日報)
以下、直接的なネタバレはしませんが、あらすじや小さなエピソードの紹介を含みます。まっさらな気持ちで観たい、という方は公開後までお待ち下さい。
さて。
まず原作を読まれた方には「安心してください」とお伝えしておきます。日本語版で上下巻約500ページという長編をコンパクトにまとめつつ、原作の雰囲気を上手く映像化しています。後述するように、ラストは少し変えてあるものの、基本的な筋は原作通りになっています。
そしてヒトラーを演じたオリヴァー・マスッチの演技が素晴らしい。モノマネとしての「ヒトラー演技」もさることながら、人間としてのヒトラーの「魅力」と恐ろしさを再現していて、荒唐無稽な話でありながら違和感なく楽しむことができました。
テーマが極端な映画は「出落ち」のようになってしまい、映画としての作り込みや細部が甘くなることがありますが、この映画に関しては心配ありません。「ヒトラーを現代に蘇らせる」という濃厚な味付けに甘えることなく、ひとつの娯楽映画としても成立するように、きちんと手間暇をかけて料理している作品だと思います。さらにモキュメンタリーのように、実際にヒトラーの扮装をしたマスッチがドイツ各所を行脚し、街の人々の反応を撮影するということもしたのだとか。この「恐らく素人であろう人々の反応」が作品の随所に挟まれるのですが、それだけで多くのことを考えさせられます。
余談ですが、数あるギャグの中でも、某ヒトラー映画のパロディに大爆笑してしまいました。日本のネットでもミーム的に大流行した、あの「嘘字幕ネタ」なのですが、調べてみると世界的に流行していたネタなのですね。気合い入れてぶち込んでくるわけだ……。
ということで、純粋に映画として楽しめる一本に、余計な考察など蛇足以外の何物でもないのですが。「ヒトラー映画」である以上、それが観客につきつけるメッセージについて考えざるを得ないでしょう。
先ほど「ラストは少し変えてある」と説明しましたが、もう少しだけネタバレにならない範囲で言うと、原作よりもシリアスな終わらせ方をしてあります。また同時に、虚構と現実がより強くリンクするような仕掛けもしてあります。原作がほのめかしていたメッセージを、より強く感じさせるための改変、と個人的には理解しました。映画化されればより多くの人々の目に触れることになり、さらに小説よりも短時間でメッセージを伝えなければいけないのですから、「わかりやすくする」ための処置として必要だったのでしょう。
その改変された終盤の場面で、ヒトラーは「ヒトラーとは何か」という問いに自ら答えます。それは『帰ってきたヒトラー』という作品を通じて、実はずっと描かれている答えなのですが、それだけにヒトラーのセリフは心に重く残るのではないでしょうか。
そしてこの作品を通じて描かれるさまざまな場面は、現在の私たちが置かれている状況に他なりません。漠然とした閉塞感。政治への不信。異なる存在への恐れ。そこに「はっきりモノを言う魅力的なリーダー」が現れたら、みな彼を賞賛してしまうのではないか……。原作が発表された2012年の時点では、それはあくまで仮説にしか過ぎませんでした。しかし2015年から16年にかけて続いている米国の「トランプ旋風」などを見ていると、この作品で描かれる世界は、現実とそう遠くないのではと感じてしまいます。
ということで、原作よりもビターな味付けをし、原作以上に現実とのリンクを深め、さらには原作発表時点よりも事態が深刻になろうとしている2016年に公開される『帰ってきたヒトラー』は、本気で笑えると同時に本気では笑えないという希有な作品になっていると思います。6月の公開をどうぞお楽しみに。
先日久しぶりに、試写会に参加してきました。映画のタイトルは『黄金のアデーレ』。美術が好きな方はこれだけでピンと来るかもしれませんが、クリムトの名画をめぐる、ある実話に基づく映画です。
ということで映画についての記事なので、ネタバレしないように解説しますが、なるべく情報を入れずに見たいという方はこの辺りでお戻り下さい。
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古代ギリシャやエジプトなどの例を紐解くまでもなく、芸術は時の施政者や権力と強く結びついてきました。希有な美術品は国の宝とされ、時には観光資源という現実的な価値を持つ存在となりながら、丁重に保護されてきたわけです。
それだけに美術品は、力による略奪の対象にもなってきました。たとえばルーブル美術館には、ナポレオン1世の時代に諸国から集められた美術品・歴史的遺物が多数収められています。また「略奪」という言葉はふさわしくないかもしれませんが、経済的な力を持つ国や有力者が、オークションなどを通じて財力で美術品・歴史的遺物を集める場合もあります。いずれにしても、多くの人々から価値を認められる品であればあるほど、それをめぐって争いが起きてしまうわけです。そして奪われたものを取り戻そうという、美術品をめぐる返還論争もあちこちで発生しています。
難しいのは、略奪という行為が悪い結果だけをもたらすとは限らないという点です。よく指摘される点ですが、先ほどのルーブル美術館を始めとして、「力のある国に集められているからこそ、適切な保管がなされ、さらに体系立てた展示を誰もが見学できる」というメリットもあります。いまISが支配地域にある美術品・歴史的遺物を破壊するという暴挙に出ていますが、「あくまで美術品保護という観点だけで考えるならば」、イラクよりも先進国に移されていた方が良かったとも考えられるでしょう。
いったい美術品は誰が所有するべきなのか。それをどう判断したら良いのか。この難しい問題を考えさせられる、ひとつのケーススタディとなるのが、今回の映画『黄金のアデーレ』です。
ただケーススタディとはいっても、何らかの答えに導いてくれるものではなく、よりこの問題の複雑さを増す内容なのですが……。簡単にあらすじを述べると、主人公はロサンゼルスに住む高齢の婦人と、駈けだしたばかりの新米弁護士。一見普通の2人が、なんとオーストリア政府を相手取って、超有名な絵画の返還を求める訴えを起こします。その絵画とは、クリムト作『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』。英語では"Woman in Gold"というのですが、これは映画の原題でもあります。どうして"Woman in Gold"と呼ばれるのか(そしてこの名前が映画にも採用されたのか)にはきちんと意味があるので、ご覧になる方はその辺りも注意してみて下さい。
なぜ主人公たちは無謀とも思える訴えを起こしたのか。実は主人公の一人である82歳の婦人、マリア・アルトマンは、アデーレ・ブロッホ=バウアーの姪にあたる人物。叔母のアデーレのことをよく覚えていて、その後彼女の家族がたどることとなった凄惨な運命を象徴する存在として、『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像』を取り戻そうとしたのでした。
いまでこそ『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像』は名画として、「全人類の宝」的な受け取られ方をしていますが、もともとはアデーレと家族のために描かれたもの。歴史的遺産として共有されるべき名画であることは事実ですが、一方でマリアたちにとっては、かけがえのない家族の宝なわけです。しかもこの絵は、ナチスがオーストリアを占領した際に、ナチスによって無理やり略奪されていました。その後めぐりめぐって、オーストリア政府の所有物としてベルヴェデーレ宮殿美術館に展示されていたこの絵を、いったい誰が所有すべきなのか――簡単には割り切れない問題が突きつけられます。
どうしてマリアがこの作品にこだわるのか、映画では原題(実際にこの論争が起きた2006年頃)と過去(オーストリアがナチスに占領される前後の時期)を巧みに切り替え、マリアの心情を描くことで、彼女が抱いている気持ちを力強く伝えてきます。もちろんこの作品はフィクションとして作られていますので、実際にはマリアがどのような思いで行動したのかは想像するほかないのですが。
実は試写会には山田五郎氏によるトークショーが付いていて、その場で山田さんがこんなことを語られています:
美術作品は美術館で観るものと考えている人がほとんどだと思いますが、美術作品は買うものでもあるんです。ですので、ぜひ皆さんも美術作品を買って楽しんでみてほしい。そうすることで絵の見方も変わってくるし、この映画を観た時の感じ方も違うと思います。
現代ではどうしても、芸術作品を「鑑賞」という形で消費することが多く、「アートとは美術館や博物館に展示されているもの」という感覚を受けることが多いと思います。その視点だけから考えた場合、マリアの行動は残念ながら支持しがたいものになるでしょう。しかしこの映画を観ているうちに、芸術作品には極めて個人的な意味が宿ることがあるのだという点に気付かされました。もちろんその個人的な意味が、人類共通の価値を必ず上回るとは限りません。ただそうした個人の思いを無視して、国家が作品を所有し続けるというのも、一種の「略奪」と言えるのではないか。『黄金のアデーレ』は、そうしたもうひとつの視点を与えてくれる作品でした。
僕の妻も絵を描く人で、うちにはお金を出して買った絵画が何点かあります。ポストカードのような印刷物ではなく、作家さんによる肉筆の作品です。それはマリアにとっての『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像』ほどの強い意味を持つものではありませんが、山田さんが仰るように、「美術館に収められている作品」とは違った意味を教えてくれる存在です。作品のメインテーマとは異なりますが、そうした芸術との新たな付き合い方を考えさせてくれるというのも、『黄金のアデーレ』という映画の価値ではないかと思います。
***
果たしてマリアの訴えはどのような決着を見るのか。実話が基になっているということで、話の筋は変わりようがないのですが、作品を通して観るとこの「結末」にある程度納得できるのではないでしょうか(個人的にかなりマリアに感情移入して観ていたという理由もあるかもしれません)。話の展開もスリリングですし、新米弁護士の成長っぷり?に胸躍る展開もありますので、純粋に娯楽映画としても楽しい作品だと思いますよ。
ブロントサウルス?あぁ、アパトサウルスの若い個体に間違って付けられた名前でしょ。恐竜に詳しい人なら、ブロントサウルスって呼び方はしないよ――
と思ったあなた、こちらのニュースをどうぞ:
■ 「ブロントサウルス」は、やっぱりいる!(WIRED.jp)
ブロントサウルス(雷竜)はこれまで、正式な種ではなくアパトサウルスの若い個体として分類されていた。しかし新たな標本研究と統計学的解析の結果、独自の属に分類される可能性があるとの研究結果が発表された。
ということで、ある年齢以上の方々(含む自分)には非常に懐かしい「ブロントサウルス」が復活するかもしれないとのこと。個人的にもブロントサウルスという言葉の響きには「いかにも恐竜」と感じさせるものがあるので、嬉しいところです。
1879年に新種として発表されたブロントサウルスは、1903年の論文で「アパトサウルスの若い個体に過ぎない」として否定され、正式には使われなくなります。しかし「雷竜」を意味する言葉の響きが良かったためか、あるいは単なる惰性(もしくは展示物を修正するのは手間がかかるという博物館の怠慢)なのか、「ブロントサウルス」という呼び名は一般の間で使い続けられました。それでも何度かの恐竜ブーム、そしてネット社会の到来によって「ブロントサウルスw アパトサウルスが正しいんですけどww」という風潮が生まれ、徐々に使われなくなってきていたわけですが、「やっぱり別の種類でした」となるかもしれないと。
考古学や歴史学などに共通する性質ではありますが、恐竜学もこれまで「正しい」とされてきた知識が次々に塗り替えられていく世界です。過去を研究する学問なのだから、子供の頃に習ったことを息子や娘に話しても大丈夫だろう、などというのは禁物。知らぬ間に恐竜はしっぽを引きずらなくなり、絶滅の主因は隕石の落下であるという説が最有力となり、そもそも絶滅はしておらず鳥類が恐竜の子孫であるという説明が行われる時代になっています。
このくらいは当然聞いていたよという方が多いでしょうが、それでは映画『ジュラシック・パーク』に登場するヴェロキラプトルは、実際にはより大きな別の種「ディノニクス」を描いているというのはどうでしょうか(本当の「ヴェロキラプトル」は七面鳥程度の大きさとのこと)?そのディノニクスが群れで狩りをしたというのも定説ではなく、単に死肉に群がっているところが化石化した可能性もあるというのは?そもそも「この特徴があったから恐竜は繁栄した」という、恐竜の定義にも関わる様々な特徴が他の古生物に見られるようになっており、「恐竜とは何か」という根本的な問いが曖昧なままであるという点は?
ということで、そんな恐竜学の最前線を知ることができるのが、『愛しのブロントサウルス―最新科学で生まれ変わる恐竜たち』です。
愛しのブロントサウルス―最新科学で生まれ変わる恐竜たち ブライアン・スウィーテク 桃井緑美子 白揚社 2015-07-04 売り上げランキング : 13855 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
前述の通り、過去を学ぶとはいえ、恐竜学は移り変わりの激しい分野です。従って新しい本であれば、何かしら発見が含まれているものですが、本書の良い点は「なぜ以前の説や一般の間での『定説』が否定され得るのか」「かつての説にはどのような時代的背景が影響しているのか」を丁寧に説明してくれている点です。「新しい化石が見つかったので古い説が覆されました」で済ませることはしていません。恐竜そのものと同じくらい、恐竜を研究する人々や恐竜を愛する人々の側にもドラマがあり、試行錯誤の中で研究が進められていることを垣間見ることができます。
著者のブライアン・スウィーテクさんも、恐竜、中でもブロントサウルスが大好きで、その「消滅」に胸を痛めている一人(本書執筆時点では、冒頭のブロントサウルス復活?というニュースは出ていませんでした)。そうした悲喜こもごも、日進月歩(朝令暮改?)な恐竜学の世界を、非常に楽しく読みやすい文章で表してくれています。本業はサイエンスライターで、ナショナル・ジオグラフィックのウェブマガジンでコラムを執筆しているとのこと。納得。
この夏はいよいよ、映画『ジュラシック・ワールド』が公開されます。そして夏休みといえばお馴染みの恐竜展も、幕張メッセの「メガ恐竜展2015」やパシフィコ横浜の「ヨコハマ恐竜博」など、各地で開催されています。こうした根強い恐竜人気の源泉はどこにあるのでしょうか?ブライアンさんは、エピローグでこんなことを述べています。
アパトサウルスやそのほかの恐竜が死刑執行に猶予をあたえられていたら、僕らの目に恐竜はあれほど特別なものに映らなかっただろう。鳥は恐竜だとわかっていても、その中生代の親類ほどには愛おしく思わない。鳥は身近すぎる。あたりまえすぎる。白亜紀末の大量絶滅を生き延びたさまざまな姿の奇妙な化石哺乳類も同じだ。彼らも恐竜と同じくらい目を瞠るような生きものだが、今日僕らのまわりにいる動物に似すぎている。僕らが恐竜のことを忘れられない大きなわけは、恐竜がほかの何とも違う希有な生きものだからだと僕は思う。あれから6600万年のあいだに、恐竜のような生物は現れていない。絶滅によってあいた大きい穴で僕らと恐竜は引き離され、恐竜は非現実的な生きものになった。
現代のどんな生物にも似ていない巨獣――想像や空想で補わなければならない部分が多いからこそ、自分の理想や憧れを反映できる部分も多く、それが人々を引きつけるのかもしれません。その結果、様々な学説が出てきては上書きされ、自分が慣れ親しんでいた恐竜の姿まで否定されることが起きるわけですが、それも致し方のないことなのでしょう。
そんなわけで、いまの最新科学は恐竜をどんな姿に描いているのか。太古の世界に再び思いを馳せるきっかけとなってくれる一冊、おすすめです。
空撮や測量、インフラ点検など、様々な用途に活用されるようになってきたドローン(小型無人飛行機)。そのドローンのビジネス活用をテーマにした本を書かせていただきました。タイトルは『ドローン・ビジネスの衝撃 小型無人飛行機が切り開く新たなマーケット』。本日7月21日に、書籍版と電子書籍版が同時発売されます。
ドローン・ビジネスの衝撃 小型無人飛行機が切り開く新たなマーケット 小林啓倫 朝日新聞出版 2015-07-21 売り上げランキング : 22587 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
日本では今年4月に起きた「首相官邸ドローン侵入事件」などがきっかけとなり、「ドローンは危険ではないか」「規制すべし」との声が大きくなっています。実際に、飛行制限を拡大する内容の航空法改正案が閣議決定されるなど、今後ドローンの飛行や活用に一定のルールが課せられるようになることは避けられないでしょう。
一方で日本には、1980年代から農薬散布用ラジコンヘリの研究開発が取り組まれてきた歴史があり、ドローンのビジネス活用を推進しようという動きがしっかりと存在しています。セコムさんのセキュリティサービスにおけるドローン活用など、先進的な取り組みも少なくありません。またそうした流れを受けてか、政府の中にも、ドローンのビジネス活用を阻害しない形でルールを整備しようという姿勢が認められます。
こうした動きがあることは、一般には意外なほど知られていません。本書の取材内容を様々な場面で話しているのですが、「そこまでドローン活用が進んでいるのか」と驚かれることも少なくありません。またネット上では、「今回の規制拡大で日本のドローン産業は終わりだ」といった声があげられていますが、確かに規制によって自由度が下がることは否めないものの、逆に許されること・許されないことが明確になり、ビジネスを進めやすくなるという意見もあるのです。
本書では、そんなドローン活用の現場を伝えるために、多くの関係者の方々に取材させていただきました。その一部を、インタビューコーナー「ドローン業界のキーパーソンに聞く」として独立して掲載しています。登場順に、インタビューを掲載していただいた方々をご紹介すると、
となります。非常に興味深いお話を聞くことができましたので、インタビューコーナーだけでも読んでいただけたら幸いです。
これからドローンはビジネスの中でどのように活用され、どのように社会を変えていくのか。それを理解するヒントのひとつとして本書を活用していただけたら、こんなに嬉しいことはありません。『ドローン・ビジネスの衝撃』、どうぞよろしくお願い致します。
日経BPさまより、『データを正しく見るための数学的思考――数学の言葉で世界を見る』を頂いてしまいました。原著"How Not to Be Wrong"(間違わないための方法)をキンドル入れっぱなしで読んでいなかったので、大変ありがたいです(笑)。ということで、簡単にご紹介を。
データを正しく見るための数学的思考――数学の言葉で世界を見る ジョーダン・エレンバーグ 松浦 俊輔 日経BP社 2015-07-02 売り上げランキング : 5938 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
範疇としては「数学読み物」という部類に入る一冊でしょうか。テーマは数学ですが、たとえばデータ・サイエンティストを養成するための教科書のような雰囲気ではなく、あくまで一般の人々に「数学的思考」を身につけてもらい、それによって「間違わないための方法」を身につけてもらうことが目標。そのため複雑な数式は登場せず、途中頭を使う場面があるものの、ペンや電卓などは特に必要ありません。とはいえある程度高度な内容が扱われているので、通勤通学の寝ぼけた頭でもスラスラ読める……というわけではないのですが。
本書には確率や分布、あるいは「大数の法則」など、様々な数学的概念が登場し、具体的な事例を通じて解説されます。もちろんそうした概念に関する深い理解が得られるというのが本書の価値のひとつなわけですが(しかも「p値のハッキング」(!!!)など、扱われる事例はいずれも興味深いものばかりです)、個人的にはそれ以上に、「日常生活の中で数学を役立てるというのは、つまるところどういうことなのか」を教えてくれる点に、本書の最大の価値があるのではないかと感じています。
著者のジョーダン・エレンバーグ氏(ウィスコンシン大学マディソン校数学科教授)は、本書の中で繰り返し「数学とは他の手段による常識の拡張である」(クラウゼヴィッツの「戦争は他の手段による政治の拡張である」のもじり)という言葉を語っています。数学とは何か、異世界の住民の異質な思考をまとめたようなものではなく、あくまでも「常識」を補強し、それを適応する範囲と力を大きく拡張するものである、と。逆に言えば、数学的知識だけを振り回したとしても、現実世界の問題を解く武器にはならないわけです。
彼のその思いは、こんな箇所にも表れています:
私は文章題が嫌いだ。数学と現実との関係についてひどく間違った印象を与えているのだ。「ボビーはビー玉を300個持っていて、ジェニーに30%をあげました。それからジェニーにあげた分の半分の数をジミーにあげました。何個残っているでしょう」。これは現実世界の話のように見えるが、ただのあまり説得力のない形の算数の問題だ。文章題は、ビー玉とは関係ない。これは「300-(300×0.30)-(300×0.30)/2=」と電卓に入力して、答えを写しなさいと言ってもかわまない。
しかし現実世界の問題は文章題とは違う。現実世界の問題は、「景気後退とその余波は、雇用の面ではとくに女性にとって厳しかったか。またもしそうなら、そのうちどの程度がオバマ政権の政策によると言えるか」といったことだ。電卓にはこれを解くためのボタンはない。意味をなす答えを得るためには、数を知るだけでは足りないからだ。男性と女性の雇用喪失の推移のグラフは、典型的な景気後退の場合にはどんな形を描くだろう。今度の景気後退はその点でとくに違うところはあったか。女性に偏っている雇用にはどんなものがあり、オバマ政権は、その経済部門に影響するような政策判断をしたか。そうした問いを明らかにしてはじめて、電卓を取り出せる。しかしそのときには本当の頭脳作業はすでに終わっている。ある数を別の数で割るのはただの計算だが、何を何で割るべきかを明らかにするのが数学なのだ。
数学を通じてある問題を明らかにしようとする時に、どういう思考でアプローチするのが正しいのか。あるいは別の思考を取るのがなぜ間違っていて、それによってどのような誤解が生まれてしまうのか。すなわち「何を何で割るべきなのか」を考えることの重要性を教えてくれるのが、本書の最大の存在意義ではないかと思います。
エレンバーグ氏は数学者でありながら小説家も目指していたそうで、そのためか文章はユーモアと哲学であふれています。たとえばこんな箇所も引用しておきましょう:
私に何が言えるだろう。数学は間違わないための方法だが、すべてについて間違わないための方法ではない。間違いは原罪のようなものだ。われわれは間違うように生まれついているし、その後もずっとついてまわるし、自分の行動に間違いの及ぶ範囲を制約するつもりなら、絶えざる警戒が必要だ。何かの問題を数学的に分析する自分の能力を強化することによって、自分が信じていることが広く信頼できると思い、それをやはり間違っていることについて不当に拡張するということである。信仰の篤い人が、時を重ねるうちに、自分は徳を重ねたという感覚を強くしたあまり、自分の行う悪いことも良いことであると信じるようになるようなものだ。
数学だけでなく、あらゆる技術や思想についても言えそうな言葉です。自分が手にした、あるいは手にすることになる武器について、その正しい使い方を覚えておくようにすること、もしくは正しい使い方を覚えておかないと危ないということを自覚すること。それこそもう一つの意味での「間違わない方法」ではないでしょうか。
600ページ以上あるので簡単には読み切れない本ですが、夏休みで時間が取れたときにじっくり読むと良いのではと思います。あと杞憂ならいいのですが、「よくある文系向け統計学入門本でしょ」って誤解されそうで心配……テクニック論ではなく、より深い部分にある思想を教えてくれる本である点は声を大にして言っておきたいところ。
ということで、3日間行ってきましたよO’ReillyのIoT系カンファレンス”Solid”。やたらバイオ推しだったり、Strataにはすっかり姿を見せなくなったティム・オライリーが満面の笑みで登壇してたりといろいろありましたが、活気があって良いカンファレンスでした。ロケーションもいいし、そりゃティムもニコニコだわ(くどい)
で、帰りはコスト削減のため深夜1時の便にしたので、いま空港でまったり過ごしているわけです。脅威の4時間待ち。この時間を利用して、今日も自分用の簡単なまとめを少し。眠いのでかなり筆が乱れるはず。
あとStrata同様、各セッションおよびキーノートで使用された資料類が公開されてます(スピーカーが一般公開に同意したもののみ)!興味のある方はこちらからどうぞ。
コリイ・ドクトロウ!期待した通り、パワフルなキーノートを展開してくれました。スライド無しで15分間しゃべりっぱなし。内容は彼の日頃の主張+電子フロンティア財団(EFF)の主張を凝縮したものといったところでしょうか。「錬金術師の秘密主義、閉鎖的な態度が錬金術を科学にすることを妨げた」という話から始まり、自動車ローン版サブプライム+IoTによって「ローンを払えない人の自動車をいきなり動かなくしてしまうこともできる」という話を引き合いにして、IoT時代こそ技術をオープンにしていかないと消費者は保護できないし、技術も発展していかないと訴えていました。文字通り「あらゆるもの」がコンピューター化するのがSFではなくなりつつある状況で、これまでのDRMのようなやり方や姿勢が「あらゆるもの」に対して通用するのか、落ち着いて再検討しなければならないのでしょう。
SolidをJoiさんと一緒に仕切っているJon Brunerさんのキーノートでは、いまのIoTをめぐる動きは数年前のビッグデータをめぐる動きと一緒だよねということで、HBRのこんな表紙の対比が。さらにIoTだけでなく、製造をめぐる新たなテクノロジー(3Dプリンティングとか)と絡めたところにsweet spotがあるよと整理してました。この辺は昨日のJoiさんのキーノートでもあったように、複数の先端技術が重なり合うというか統合されて活用されるところでイノベーションが生まれてる、というSolidを通じて流れている思想に近いのかと。そしていまやあらゆる企業がデータを扱い、すべての製品がデータプロダクトとなりつつあるように、いまやあらゆる企業がテクノロジー企業になったのだという言葉で締めていました。正確に言えば、「すべての企業がテクノロジー企業のように行動しなければ生き残れない」なのでしょう。
完全に余談ですが、早朝に荷物を預けようとBaggage Roomを探してたら、キーノート直前で忙しいはずのJonさんが助けてくれました。なんていい人なんだ。
続くDavid Kongさんのキーノートでも似たようなベン図が(中身は違うけど)。自分が見てるセッションだけでも、これに似た解説をしてるのを4回は見た。Sweet Spotは円が重なり合う部分ですよっと。で中身は昨日紹介した、Next Big Thingな合成生物学。ちょうどメイカームーブメントからファブラボが生まれたように、「バイオラボ」をつくって、誰もがバイオテクノロジーを扱えるような世の中にするのが夢とか。皆が新しいバクテリアを開発してる世の中とかすごいな……
これも完全に個人的な感想ですが、日本の場合は新しいテクノロジーの潮流が生まれると、「日本企業再興のチャンス!」的な論調になることが多くて(今度出るドローン本でもそんな書き方をしてしまってるけど)。けど米国の場合には、「個人のempowermentだぜ!」的なアプローチやムーブメントに転換されてくのが面白いと感じています。日本でも「誰もがバイオテクノロジーを扱える環境を!」的な動きが生まれてくるのかなぁ。
Shasta Ventures(VC)のRob Coneybeerさんによるキーノートは、「計画的陳腐化(Planned Obsolescence)」は最近のガジェット類の衰退=シリコンバレーの衰退をもたらすか?というもの。計画的陳腐化とは、たとえば自動車のモデルチェンジのように、技術的にはまだまだ使い続けられるものを別の理由(この場合はファッション性)から使えない・使いづらくして買い換えを促すという手法。デトロイトが自動車の都から衰退したのは、計画的陳腐化を始めとする消費者軽視が一因であるとした上で、「iPhoneが数年に1回本体をバージョンアップさせるのも、これと同じことに当たるだろうか?」と問いかけます。
結論から言うと、「ムーアの法則(で絶え間なく進化するから数年ごとにモデルチェンジしても当然)」と「クラウド(による機能の絶え間ないアップデート」があるからかつてと同じ状況じゃないよね!と答えを出した上で、それでも「陳腐化への計画的対応(Planning for Obsolescence)」はしなくちゃけいない、つまり技術が急速に陳腐化する中で、製品の価値をどう維持するのか(それは当然ながらソフトウェアを通じてということになるので、どうやってハードの価値をソフトで補い続けるか)、あるいは数年ごとに買い換えをしてもらうというサイクルにどうやって消費者を載せるのか(その場合の価格設定やブランド戦略は?)という話が展開されてました。この辺は以前アスキーさんから邦訳を出させていただいた『ソーシャルマシン』でもちらっと論じられているので読んでみるといいよ!
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ぶっちゃけIoT時代には、製品のもたらす価値の多くが製品の外側からもたらされるんですよね。Solidで僕が覗いたセッションの中にも、突き詰めるとその辺りをどう管理あるいは活用するのかを論じたものが多かったように思います。たとえばいきなりセッションの話になりますが、
これがまさにその辺りの話をしてて。物理的なスイッチの上にソフトウェアのレイヤーをかぶせて、それを拡張現実感で視覚的に操ることで、まったく別の機能を付与してしまうというValentin Heunさんの研究が紹介されていました。たとえば2つのランプを並べて、それをiPadで撮影して画像内で線をひっぱると、片方のランプのスイッチが別のランプのスイッチも兼ねるようになったりとか。そんなおかしなことを考えるのはMITメディアラボの人しかいない、ということでHeunさんもやっぱりメディアラボの人。なんか石を投げればメディアラボ関係者に当たるってぐらい、あちこちで見かけたなぁ。
でもこれ、楽しいのは楽しいんだけど、やっぱり「物理的な姿と機能の分離が起きるIoTの世界で、使いやすいデザインをどう実現するか」という観点からはマイナスになるような気がして。ちょっとプレゼン聞いてる時に違和感を感じました。だってiPadをセカイカメラのようにして見ないと表れない「バーチャル操作画面」によって、スイッチの機能がいきなり入れ替わったりするんだよ?使い方を間違うと、逆に直観的ではなくなってしまうような。使ってみないとなんとも言えないけど。
シロクマ日報で”The Patient Will See You Know”という本を紹介しているのですが:
■ 【書評】マクルーハンは医療ビッグデータの夢を見るか――"The Patient Will See You Now"
ここでも”Internet of Medical Things”(医療機器のインターネット、IoMT)という言葉が登場してて、IoTの一分野として、それも有望な一分野として存在感を増しているように感じます。
でこのIoMTの世界ですが、IoTにおける課題が凝縮されてる感じで面白いです。データを集めて医療に役立てよう、治療の効率化や効果アップを実現しようは良いのですが、その可能性とリスクの広がりが想像以上に広いという。たとえばインフルエンザは何気にリスクが高いので気軽に病院に来てもらうのではなく、iPhoneにつながる簡易機器で早期に症状を計測して病院クラウドにアップしてもらい、それに基づいてAIが原因を診断、インフルエンザの場合には患者との接触を減らすためにドローンが薬を運ぶ……というすさまじい未来像が描かれます。しかしそれってセキュリティが保たれるの?とか、関係するデータは誰に所有権があって誰が責任持って保管するの?とか、逆にデータリテラシー的なものがない患者はデータに振り回される結果になるんじゃない?とか、問題山積な感じがしてすごいです。いやこういった未来像が実現されれば、本当の意味で「すごい」んだけど。
これもある意味で非常に「Solidらしい」セッションでした。Catalia HealthのCory Kidd博士によるセッション。彼が研究しているのは、「ロボットを通じて患者とのエンゲージメントを高める」という技術。そして完成したのがこの”mabu”です。
Mabu Introductory Video from Catalia Health on Vimeo.
Introducing the Mabu personal healthcare companion from Catalia Health.
mabuは患者とのコミュニケーションを行うロボットなのですが、その目的は「きちんと薬を飲むように仕向けること」。なんでも同じ情報を伝えるのでも、スクリーン上だけで「目」を再現するして行うのと、物理的な「目」を用意して行うのとでは、後者の方が患者が話を積極的に聞こうとし、結果的に伝わる情報の量と質も高くなったのだとか。この研究結果を利用して完成したのがmabuで、実は2000年代にも同じロボットを企画していたのが、コストがバカ高くなるので断念したとのこと。それが最近になって、関連技術のコストが限りなく低下したので、ビジネス的にOKになりそうだと。しかもこれまで行われている実証実験では、かなり良い成績を収めているようです。
気になるビジネスモデルですが、製薬会社や病院を通じて患者に提供するという形を考えているとのこと。レンタル料は1代数百ドル程度。彼らがお金を払うの?というところですが、Coryさんの説明によれば、彼らは今でも薬をきちんと・正しく飲んでもらうという啓蒙活動に多額の費用を費やしているのだとか。でもほとんど効果が無いわけで、ならばmabuに数万円費やすだけで、いまの無意味な啓蒙活動を縮小できる=mabu導入の原資になる、と踏んでいるようです。上手くいくかどうかは分かりませんが、TechCrunchでも取り上げられています:
■ Catalia Health Gets $1.25 Million From Khosla Ventures For Its Healthcare Robot (TechCrunch)
てことでSolid初体験だったのですが、このごった煮感は確かに面白いわ。今年が第2回目なので、傾向もへったくれもないのですが、昨年より参加者が増えているというのも納得。そして10月にはオランダで開催という、これもStrataと同じ多角展開が予定されています。サンフランシスコでの第3回Solidも早々に開催決定していて、来年4月になるとか。
英語だと”collide”(衝突)とか”converge”(合流)とかいった単語で表現されていたのですが、ソフトとハード、デジタルとフィジカル、シリコンとバイオ、メーカーとメイカーズといった具合に、先端的な取り組みが重なり合う部分で面白いことが起きてるよね、という話の多いこと。その象徴として中心に置かれているテーマがIoTだったわけですが、別にIoTだけでなく、様々な他家受粉が起きていることを実感した3日間でした。そういえば他家受粉(cross-pollination)という言葉を使ってるスピーカーも何人かいたっけ。
いずれにせよ、ほんの10年前には存在すらしていなかったツールやサービスを使いこなし、世界的な成功を収める起業家やスタートアップがいくつも登場していることには脅威を感じます。日本に帰ったら、何から始めようかなぁ……
ということで、昨日に引き続き、参加中のイベント”Solid”についての覚え書きを少し。ざーっとまとめただけなので乱文ご容赦下さい。Solidですが、昨日はTutorialの日という位置づけなので、正式には今日が初日となります。
これは完全に個人の感想になるのですが、日本人がけっこう多かったという印象。Strataは圧倒的に中国人、インド人の数が多いのですが、Solidでは日本の方とすれ違うことが多かったです(あくまでも主観でってことで)。この辺はモノづくり大国日本ってのが影響してるんでしょうか。
Takao Ikomaさんもツイートしてましたが、今日のキモはJoi Itoさんのこのスライドに尽きるかも。
Computational Design/Additive Manufacturing/Materials Engineering/Synthetic Biologyが重なり合った部分で面白いことが起きてるのよ、的な図。Synthetic Biologyは合成生物学と訳されていて、日本のビジネス界隈では(と書くと怒られるので自分の観測範囲内では)まだそれほど注目されていませんが、Joiさんが”Why bio is the new digital”とキーノートのタイトルにつけてしまうほどNext Big Thingなテーマです。Solidでも1トラックがまるごと合成生物学に割り当てられているし(24日だけだけど)、いま翻訳中のとある洋書(もうちょっとで予約開始になるかも!)でも取り上げられているので、気になる方はチェックを始めた方が良いかもしれません。
ちらりと引用しておくと、
■ 合成生物って何? 国際的な規制・管理は必要か? 生物多様性会議で検討始まる (FOOCOM.NET)
合成生物(Synthetic Biology)とは社会一般ではあまりなじみのない言葉だが、もともとは合成生物学と訳され、コンピュータ工学を使って、生物のゲノム(全遺伝子情報)を人工的にデザインすることを目的とした異分野融合の学問分野だ。今でも合成生物学と訳されることも多いが、今回とりあげるのは、人工(合成)ゲノムを利用して細菌や藻類に香料、医薬品、バイオ燃料などを作らせる合成生物応用技術だ。
いわゆるバイオテクノロジーの範疇に入るもので、デジタル技術が応用可能なため、コンピューター工学の専門家がこぞってこの分野に取り組み、飛躍的な発展が生まれつつあるって感じでしょうか。こちらの資料(PDF)によれば、米国では合成生物学に関する研究開発を行っている機関は、2011年時点で既に200 以上に達しているとか。あと洋書だと”Regenesis”や”Life at the Speed of Light”などが紹介されてました。2012年と2013年の本だけど、どっちも邦訳されてなさそう……翻訳したいな……(邦訳出版済みだったらごめんなさい)。
ともあれ、こういうテーマが守備範囲に含まれてるのがSolidですよ、と言えばこのカンファレンスの性質が良く分かるかもしれません。
象徴的という点では、こっちも象徴的かもしれません。Joiさんの後にキーノートを行った、Divergent MicrofactoriesのKevin Czingerが発表した「3Dプリンターで製造されたスーパーカー」、その名も”Blade”。近くで見るとこんな感じ:
Forbesでも紹介されてます:
■ Kevin Czinger's Ideal Sports Car Just Emerged From A 3-D Printer (Forbes)
そしてTechShopのマーク・ハッチ!以前日本でセミナーが開催された時、ドタキャンで会えなかったので、数年越しに生マーク・ハッチが見れて良かった良かった。
やたら元気の良いおじいちゃんといった感じで、TechShopを通じて成功を収めたMakerたちを次々紹介するといった内容。で、紹介が終わる度に会場のみんなに呼びかけて「ワン!ツー!スリー!ブーン!!」と唱和するという、猪木顔負けのパフォーマンス。良かった良かった。あと『Makerムーブメント宣言』をみんな買え!と言っていたので、リンクしておきます。
Makerムーブメント宣言 ―草の根からイノベーションを生む9つのルール (Make: Japan Books) Mark Hatch 金井 哲夫 オライリージャパン 2014-07-24 売り上げランキング : 51697 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
あと最近”Enchanted Objects”を出版した、MITメディアラボのDavid Roseさんのキーノートも面白かった。こっちは日本でも版権が取られたっぽいので、もう少ししたら邦訳も出版されるはず。彼が設立したdittoって会社は、大量の画像を解析することで、そこから様々な知見を引き出すサービスを提供してます。たとえばインスタグラムに投稿された大量の画像を解析して、マクドナルドに行く人とバーガーキングに行く人の間でどんな差があるのかを確認するとか。ケータイやスマホを通じてカメラが普及し、至る所で写真が撮影されるのが当たり前になった世の中に、「強力な画像解析」という技術が加わるとどうなるのか。ちょっと恐ろしい感じもするのですが、IoTが当たり前の世界では他のセンサーでも同じことが起きるはずで、未来を垣間見るという点でもdittoに注目すると面白いかもしれません。
あとRobert Brunnerさんのキーノートによれば、画像解析で直接料理の仕上がりを確認する”JUNE”というオーブンがあるとか。すごい。オーブン+画像解析って……検索したら4Gamer.netで紹介されてた:
■ GPUで上手に焼けました。世界初の「Tegra K1搭載オーブン」が登場(4gamer.net)
これクラウドにつながってディープラーニングまで活用してるってことで、いったいどうなるのという感じ。家電+画像解析が当たり前の時代になったら、日本国民全世帯の食事事情とか解明されちゃうんだろうか。
MGIのMichael Chuiさんによるセッション。MGIが最近発表したレポート”Unlocking the potential of the Internet of Things”の内容をかいつまんで説明する、という感じでした。印象的だったのは「IoTはハイプ(新技術に対する期待が過度に膨らんでいる状態)かもしれないけど、ハイプの後に数年かけてギャップが埋まる(当初の期待通りの価値を実現する)というパターンが他の技術でも見られたので、IoTもそうなる可能性はある。その場合、上手く使いこなすワザをいち早く見つけた企業が成功する」と指摘していた点。
HavenのRenee DiRestaさんによるセッション。3PLの世界でいま何が起きているか、という話でした。言いたいことは次のスライドでまとめられているかも:
FedExが一社ですべて担っていた物流機能が、次第にアンバンドルされつつあって、それぞれの機能において優れたサービスを提供するベンチャー企業(もちろんデジタル技術をフル活用するもの)が登場してきているよという話。で、かつてのコンテナ業界のように、やり取りされるデータが標準化されつつあるので、それぞれのサービスを組み合わせてより良い物流が実現できるという。フィジカルなレイヤーにデジタルのレイヤーが加わることで、こういうことが起きてくるよね、という結論でした。確かに前述の翻訳中の某洋書でも、金融業界におけるアンバンドル+特化型ベンチャーの登場が描かれていて。探してみれば、似たような状況の業界はもっと見つかるかもしれません。
Thigton Inc.のTom Coatesさんによるセッション。IoTでいろんなモノがネットにつながるからといって、冷蔵庫にツイート機能が付くばかりじゃ意味ないよね!という話。「ソフトが世界を食い尽くす」(by マーク・アンドリーセン)じゃないけど、なぜかソフトとハードが融合すると、ソフトの世界のロジックが上に立つことが多いという。その結果、たとえば顔を洗いながらでもタッチスクリーンで水流を調節しなければいけないといった、バカげた状況が本当に起きるかもしれないくて:
それって違うよね、という話。この辺は、前にシロクマ日報で紹介した、”The Best Interface Is No Interface”という本の主張に近い感じでした:
■ 【書評】インタフェースがないのは良いインターフェース"The Best Interface Is No Interface"
ただハード側に全ての機能が寄せられてしまっても使いづらいので、デバイスとサービスレイヤー、それぞれバランス良く機能を配置するのが良いよね、という結論でした。この辺は、「IoT時代にはモノが持つ機能が分散し得るので(たとえば空調で実際に部屋を涼しくする/暖かくするのは自宅にある機械、細かな温度調節をするのはクラウド、その設定変更を行うのはスマホ上など)、新しいデザインアプローチが必要になる」という話に通じるのかも。
書き出したら止まらない感じになって、そろそろ寝ないといけないのでこの辺で。それから完全に余談ですが、「IoTのセキュリティをどう守るか」というセッションが多い印象。で数えてみたら、キーノートを除く69セッション中、IoTセキュリティをテーマにしていたのは6つ。うーん、そんなに多いというほどでもないか。でもやっぱりセキュリティはIoT語る上で外せないテーマになっているよね、という印象でした。