いとうせいこうさんの『職人ワザ!』を買って読んでいます。タイトルの通り、様々な職人さんに「技」の極意を聞くという内容なのですが、いとうさんが親しくされている職人の方々を訪ねているということもあり、まるで目の前で「いーか、この技術ってーのはなぁ」と語ってもらっているような感覚。なので「プロジェクトX」を見るときのような緊張感は不要で、それでいて所々に「なるほどなぁ」と感じさせる言葉が出てきます。
で、第2章に登場する江戸文字の書家・橘右之吉(たちばなうのきち)さんといとうさんの間で、こんな会話が繰り広げられています。原書(オリジナル)をコピーする技術「籠写し」についての説明があった後のくだり:
「だけど、細かい部分はどうするんですか?その分、細かく割り続けて写すんですか?」
オリジナル信仰がしみついた現代人としての僕は、つい気になってしまう。
「細かくやるところは、微妙なとこだけでいいんですから。他のところは、大体つなげていけば、曲線がそこを通るとかね。大体前より格好よくなればいいんです」
「え?」
「前にあったやつを使うってことは、それは本歌取りといって、別に悪いことじゃない。お手柄とは言われても、あの野郎とは言われないわけですよ。ところが今は……」
前より格好よくしていいコピー。しかし、考えてみればこの発想こそが日本の文芸、芸術の根本に横たわっているのだった。僕が一時ヒップホップに夢中になったのも、他人の音楽トラックの一部を“本歌取り”するというクリエイティビティのせいだった。それが今は……著作権が我々を痩せ細らせている。
「本歌取り」という発想と著作権。今日も「読売新聞からの削除依頼により、発狂小町が終了を発表」というニュースがありましたが、確かにオリジナルを作った人に対しては、何らかの対価が払われるべきだと思います。しかしそれは絶対普遍の真理ではなく、かつてコピーを許容する精神があり、そこでもきちんと優れた文化が花開いていたことも理解すべきではないでしょうか(特に Culture First な人々は)。
『職人ワザ!』でのいとうさんと橘さんの会話は、その後こう続きます:
しかし、右之吉さんはそこでこう付け加えた。
「ただ、本歌取りのしようがない、ここまでやられちゃったら手の入れ様がないというのがあるんだよね。本当はそこのところが狙いなんです。真似ようと思っても、同じことは出来ない、よく考えてあるねっていうのが。職人はみんな本当はそこのとこをやりたいんです」
まいりました、と言いたくなった。コピーは自由であり前提である文化。しかし、それを超えてしまう作品を目指して、職人は腕を競ってきたのだ。手がそれを作り出す。
「手間もかかるし、技術的にも真似できない。形は本歌取りでおっつかっつにできても、本物にはならない。それが我々の仕事の身上というか、そうじゃないと、やって面白くない」
コピーされることをお上に禁止してもらうのではなく、それを超える価値を追い求めた職人たち。著作権をガッチガチに固めようとしている人たちは、もしかしたら「自分にはコピーに対抗しうる価値を作り出す技量も、心意気もない」と宣言してるようなものかもね。
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