本の話が続いてしまいますが、『スポーツニュースは恐い―刷り込まれる〈日本人〉』という本を読了。本屋でジャケ買いならぬ「タイトル買い」をしてしまったのですが、なかなか考えさせられる本でした。
スポーツニュースは日々、特定のメッセージを発している。そのメッセージとは<私たちは日本人である>というものだ。しかし、その日本人とは、メディアのとらえた日本人であるだけでなく、サブリミナルなレベルで私たちの中に浸透する――。
裏表紙の部分に掲載されているこの一文が、本書で主張されていることを端的にまとめています。スポーツニュースに登場する選手たちって、みんな謙虚で努力家で男らしい/女らしい人々ばかりだけど、それってメディアが創り出したステレオタイプじゃないの?という話。例えばこんな感じ:
【女性は女性らしく】
女子選手の私生活に目を光らせるスポーツニュースは、彼女たちが結婚しているかどうかに特別な関心を寄せる。女子選手が結婚すると「ミセス」「奥さま」とうれしそうに呼び、出産でもしようものなら、すぐに「ママさん選手」と呼び始める。
これも女子選手だけに向けられる偏ったまなざしだ。「パパさん選手」と呼ばれる男子選手はひとりもいない。(以上、28ページ)
【女性のスポーツ進出には家族の理解が必要】
弘山(※陸上の弘山晴美選手)がトップで飛び込んだのは<夫の勉コーチとの“二人三脚”で駆け抜けたゴール>(東京)だった。ここまでの道のりは長かったが<夫の勉コーチと二人三脚で努力を重ね、マラソン挑戦10回目でついに栄光をつかんだ>(毎日)。37歳という年齢を思えば<二人三脚の陸上生活の最終章に、花を添える形>(日刊スポーツ)にもなった。
スポーツニュースはいつも女子選手の周りに「支える男」を探している。弘山の場合は、たまたま夫がコーチだったから「支える男」の姿を何倍にも大きく描くことができる。願ってもない設定だ。(以上、35-36ページ)
【スポーツ選手は謙虚であれ】
カカまでがこんな謙虚なコメントをしているのを読むと、謙虚であることが一流の証明のようにも思えるし、謙虚であることにつっこみを入れようとしている自分がとてつもなく自意識過剰な人間に思えてくる。それとも、いま取り上げた選手や監督がたまたま謙虚だっただけなのか。
(中略)
それはおそらく、日本社会では「謙虚であること」に価値があるからだ。謙虚な言葉を発しているのは、みんなこの日のヒーローである。スポーツニュースは「おごらないヒーロー」という理想像を無意識の中に描いており、そこへ向けて無意識のうちに紙面をつくってしまったように思えてくる。(以上、54-55ページ)
こんな風に、男尊女卑に古い道徳観、ナショナリズムなどなど、メディアが押しつけるステレオタイプはヤバそうなものばかり……まさしく「スポーツニュースは恐い」というわけですね。
「いやいや、確かにスポーツニュースで語られるストーリー(本書の言葉で言えば「ナラティブ」)は保守的な価値観を反映しているものかもしれないけど、メディアが恣意的に押しつけているっているのは言い過ぎじゃないの?戦時中の大本営発表じゃあるまいし?」っていう反応は著者の森田さんも想定済みで、
スポーツニュースがなにか途方もない陰謀をたくらんで、<日本人>であることを私たちに刷り込もうとしているわけではない。社会で主流となっている価値観をすくい上げ、それを言葉のあいだにはさみ込んで私たちに確認させているだけのことだ。
だから、スポーツニュースが私たちのことを意図的に規定しようとしているわけではない。私たちをなんらかの枠にはめ込もうとしているのは、社会で主流の価値観を認め、強化している私たち自身だともいえる。(以上、189ページ)
私たちがスポーツニュースに接するのは、疲れた体を引きずりながら家に落ち着いたころのテレビだったり、混雑した電車のなかで遠慮がちに開くスポーツ新聞だったりする。テレビのスポーツニュースは、だらだらと寝転がって、向上心のかけらももたずに見ているだろうし、スポーツ新聞はラーメン屋でスープのしぶきを紙の上に飛ばしながら読んでいるだろう。
スポーツニュースとはそういうものである。「批判的に読み取れ」といわれても、困ってしまうようなものなのだ。ややこしいことは、ほかの時間にさんざんやっているんだから、スポーツニュースくらい楽しく見せてくれよ、と言いたくなるようなものである。(以上、193-194ページ)
と述べています。つまりステレオタイプで切り取られた情報を求めているのは、他ならぬ私たちであって、スポーツニュースは(意識しているかどうかは別にして)それに応えている存在なのだ、と。ちなみに同書の中では、「ステレオタイプがはびこるのは、それにのっかれば自分で世の中を観察して考えなくてよくなるので、楽だからだ」というW・リップマンの言葉も紹介しています。
よく日本のスポーツジャーナリズムはクオリティが低い!という意見が言われますが、そもそもスポーツニュースが満たそうとしているのは「難しいこと考えずに楽しめる話をくれ」というニーズであって、「昨日の試合で勝敗を分けた采配を的確に分析してくれ」という(少数のマニアが抱く)ニーズではないということなのでしょう。「人々を啓蒙する(=サッカーで言えば、シュートに興奮するだけでなく、絶妙なサイドチェンジに拍手を贈るような人々を増やす)のがメディアの仕事」という理想論を掲げるならばこの状況は問題ですが、「売れるためには多くの人々を楽しませなければならない」という現実的な意見に従うならば、致し方ないことなのかもしれません。
これがスポーツニュースだけの現象ならば、しかたねーなーで笑って済ますこともできるでしょう(クオリティの高い解説を求めるファンの方々には、たまったものではないでしょうが……)。しかし「ステレオタイプで切り取られたニュース」と、それを求めてしまう心理は、スポーツに限った話ではないと思います。例えば政治なんかも、個々の政党・政治家の政策の違いよりは、彼らの間の抗争や愛憎劇といったものに焦点が当てられがちですよね。それで「○○さんは苦労人だから、首相にしてあげなくちゃいけないなぁ」「○○さんは仕える人を裏切るようなマネをする人物だから、首相の器じゃない」などという意見が生まれてしまうようでは、それこそ大きな問題が生まれかねません。
ただ、状況は少しずつ変わってきているのではないでしょうか。既に新聞離れ・テレビ離れが叫ばれていますし、専門知識を駆使してニュースを分析してくれる個人HP・ブログも存在しています。「読者に売れるストーリーを描く」という、ビジネス面での制約を離れたところで情報発信できる個人HP・ブログは、ステレオタイプ・フリーな情報源として活用されていくことでしょう。あとは「日本人は組織力が勝負だから……」などと知った顔で言われたときに、「それって本当?組織力ってそもそも何だ?」というような姿勢を、どれだけ持つことができるかですね。まぁたまには気を抜いて、「ラーメンでも食べながらゴシップ記事(に出てくるステレオタイプな世間話)を楽しむ」という態度も必要でしょうが。
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