「傘を持って行かないの?」
出かけようとする僕に向かって妻が言った。思わず空を見上げたが、雲一つない晴天で、うっすらと星座まで見えている。妻の考えすぎだろう。
「いやだ、天気予報モードにしてないのね」
と彼女は言い、僕のかけているグーグルグラスに向かって「モード変更、天気予報」と素早く呟く。すると空からは星が消え、あっという間に暗雲が広がると、大粒の雨が降り出した。もちろん現実ではなく、グーグルグラスに映し出された6時間後の予測映像だ。
最近はグーグルグラスをかけっぱなしで生活することが当たり前になり、同じ部屋で生活していても、妻と僕とで話がかみ合わないことがしょっちゅうある。テレビですら、グーグルグラスを通して一人ひとり違う番組を観ることができるほどだ。今朝僕が観ていたのは経済ニュースの速報で、妻が観ていたのは海外ドラマの再放送だった。
「ごめんごめん、昨日は流星群の日だったから、天体観測モードにしていたんだよ。じゃ行ってくるから」
僕は傘を手に取り、急ぎ足で駅へと向かう。今朝は大事なプレゼンがあるので、遅刻するわけにはいかないのだ。
――1時間後。僕は大きく深呼吸してプレゼンを始めた。
「まずはお手持ちの資料、3ページ目をお開き下さい。今回提携を検討しているH社ですが、このように非常に業績が好調で――」
「話にならん」
両手で不器用にメガネを扱っていた部長が、いきなり僕の話をさえぎった。
「X社は女性社員の割合が6割を超してるじゃないか。話にならんよ」
部長がそんなアナクロな考えの持ち主だったことにも驚いたが、僕が配布した資料にはそんな情報は一言も書いていないはずだ。事業が好調であることに意識を向けてもらうため、業績関係の情報しか載せていない。間違いない、グーグルグラスが僕の資料を上書きしているのである。これで説得力のあるスピーチをしろなんて不可能だ!
結局、僕の出番は5分で打ち切りになった。後は上司の退屈なプレゼンが続いている。僕は配られた資料に目を落としながら、そっと「モード変更、エンターテイメント」とつぶやき、資料の上に現れた海外ドラマの再放送を眺めはじめた。なるほど面白い、帰ったら妻と来シーズンの展開を予想してみよう。
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