いや、皮肉めいてしまいますが。ネットと新聞の本質の違いを、適切に表現した言葉だと思います。
■ 「新聞は役立つ」 読売新聞社会部長が講義 (YOMIURI ONLINE)
金沢大学の1年生向けの科目「大学・社会生活論」で、読売新聞東京本社の社会部長、中井一平氏が講義を行ったというニュース。
中井部長は「新聞を読んで世の中を幅広く知っていると社会に出て強烈に役立つ。インターネットと比べ、新聞は見出しや記事の大きさからニュースの価値判断が分かる」と話した。
講義の一部分だけを取り出してコメントするのも可哀想かと思いましたが、僕は以下のような意味だと解釈しました:
- インターネット上にある情報(≠ 個々のウェブサイト)はフラットなので、価値判断・取捨選択は自分で行わなければならない(時には様々なツールやサービスを使って)。
- 一方、新聞は編集部によって、「見出し」「段組み」という形で情報に重み付けが行われている。
- 「新聞に何を載せるか、どう載せるか」という点について、編集部は正しい判断を行える。
- 従って、新聞を読むだけで「正しい」「役立つ」情報が手に入る。
「文字を大きくできるかどうか」……つまり、流れる情報に誰かが重み付けをすることができるか否か。それができないネットより、できる新聞の方が優れているというロジックは、「重み付けを行う人は正しい判断をする」という前提に立っているわけですよね。しかし「重み付けを行う人は、時に恣意的な判断をするかもしれない」という前提に置き換えた瞬間、このロジックが導き出す結論は「新聞は強烈に役立たない、むしろ危険だ」ということになります。
ちなみにこの講義では、「学生は事件記事の執筆や見出しを付ける作業にも取り組んだ」とのこと。参加された学生の方が、こんなコメントを残しています:
地域創造学類1年の冬広和也さん(18)は「見出し一つにも読者の意欲をそそる工夫があると知った」と話していた。
その工夫によって、読者の価値判断に誤りが生じるかもしれない。また自分が日々「重要だ」と思って読んでいる情報は、誰かの恣意的な判断を経たものかもしれない。そんな危険性も同時に感じ取ったのだ、と信じています。
< 追記 >
ただしこの言葉、ネットではなくウェブサイト/ウェブサービスと比較したものであれば、ウェブを使う上での警句と取れるかもしれません。すなわち、「タグクラウド」のように一件集合知に見えるものでも、そこには何かしらの方向づけ(人間が行うか、プログラム/アルゴリズムが行うかは別にして)があるということを意識しなければならない、という意味で。
同感。新聞の存在意義をそのように説明する社会部部長は、思い上がりも甚だしい。企業体質を象徴しているのではないか。報道メディアとしての責任意識がズレている。
投稿情報: ivory tower | 2008/05/23 12:44
ivory tower さん、コメントありがとうございます。
企業体質・・・かどうかは分かりませんが、新聞社は時代の変化について行っていない(ついて行こうとしていない?)面があると思います。学生達に教えを垂れるより、学生達と共に新しいアイデアを練る、という姿勢があっても良いように思うのですが。
投稿情報: アキヒト | 2008/05/24 09:51