昨日寝る前に読んで、一番驚いた記事:
■ 「iPod課金」は「文化を守るため」――権利者団体が「Culture First」発表 (ITmedia News)
87の権利者団体が「Culture First」の理念を発表した。「文化が経済至上主義の犠牲になっている」とし、私的録音録画補償金の堅持に加え、対象をiPodやPC、携帯電話などに拡大すべきと訴えている。
というニュース。権利団体が利権を守ろうとするのはある意味当然の行為(利用者にとっては迷惑な話だけど)ですが、何が驚いたって、詭弁スレスレの発言がオンパレードなとこと:
- 「文化の問題は、地球温暖化と根が同じ」
- 「文明の利器はいろいろ発達したが、機械文明優先でいいのでしょうか」
- 「改めて、知的財産を財産として、『おたから』と感じなくてはいけない」
いや、文化や文明って……またおかしな議論を始めたなぁと思っていたのですが、はてなブックマークでの ID:myfuna さんのコメントを読んでなるほど、と感じました:
ああ、うまいな、と思った。このゲームは、圧倒的多数の「興味のない人たち」をいかに自陣営に引き込むかの勝負であって、議論に勝つことにはあまり意味がないのかもしれない。
確かに著作権だの補償金だのといった議論は、音楽と言えば「CDを買ってきてオーディオで聴くこと」、テレビを録画すると言えば「ビデオに録ること」な人々にとっては興味のない話でしょう。内容も難しいし、「文化を守るためにお金が必要」と言うなら支払ってあげれば――そう考える人々が増えるかもしれません。一見バカな議論に見えて、実はしたたかな計算に基づいた結果が今回の一件なのかもしれない、という風に見方を変えました(権利者団体だけに、多額の費用をかけてプロモーション戦略を練ったのかもしれませんね)。
ここまで考えてふと思い出したのが、以前もご紹介した本"Made to Stick: Why Some Ideas Survive and Others Die"にあったこんな話。ちょっとズレてしまうかもしれませんが、以下に簡単にまとめます:
ある高校で、ジャーナリズムの授業が行われた。最初の課題は、与えられた事実から記事を作ること。示された事実は、「ビバリーヒルズ高校のピーターズ校長は、サクラメントで行われる新教授法に関するイベントに出席するため、学校の全教諭が出張する予定だと発表した。イベントには、著名な文化人類学者であるマーガレット・ミード氏のほか、カリフォルニア州知事なども講演者として出席する予定となっている」という内容だった。
生徒達は様々な記事を書いたが、その出だしの多くは「来週の水曜日、サクラメントでイベントが行われ、マーガレット・ミード氏らが……」というものだった。先生はそれを見て、記事の出だしはこうすべきだと言った:「来週の木曜日は休校」。
そう、読者(本では詳しく書かれていませんでしたが、恐らく生徒達自身が読者として想定されていたのだと思います)にとって最も重要なのは、「著名な文化人類学者が新しい教授法を……」云々ではなくて「学校がない」ことなんですよね。また仮に教育関係者が読む新聞を作るという想定であれば、「ビバリーヒルズ高校、新教授法を検討」になるはずです。そんな風に、読者が知りたいこと・知るべきことを、シンプルな形で伝える力を持つ人が、自分の主張を遠くまで浸透させることができるのでしょう。
その意味で、今回権利者団体が「文化を守れ」という切り口で著作権・補償金問題をまとめたのは、非常に強いプロモーションだと思います。これは彼らの勝ちで終わってしまうかなぁ、と弱気になってみたり。
文化ですか・・・。
クラシック音楽なんてものに触れていると、本来語られるべき「文化」というのは、お金とか権利とかに関係なく100年200年と残っていく(残ってきた)ものに授けられる称号だと思いますけどね。
文化を「享受する」(お金を払って「消費する」ではない)立場の議論が抜け落ちてしまっているのがなんとも気になります。
投稿情報: ProjectK | 2008/01/17 09:02
ProjectK さん、コメントありがとうございます。
そうなんですよね、「文化」は自ら名乗るのではなく、あくまでも周囲の人々や歴史が決めるものだと思うのですが。その点も、今回の「Culture First」という議論に感じる違和感かもしれません。
また仰る通り、「文化を享受する立場の議論」が抜けてしまっていると思います。自分たちの「文化」的活動を続けるにはお金が必要、というならそれはそれで構わないのですが、お金を取る=その分利用しようという人も減る、という点を理解していないのではないでしょうか。作る人と楽しむ人、両方存在してこその「文化」なのですが。
投稿情報: アキヒト | 2008/01/21 07:52