藤原智美さんの『暴走老人!』を読了。とある書評で取り上げられていたのと、そのタイトルのインパクトに引かれて購入したのですが、文字通り「暴走する老人たち」を考察する面白い内容でした。
ただし藤原さんご自身が「あとがき」で仰られている通り、数字などのデータはあえて必要最低限となっており、「なぜ暴走するか」という結論についても主観的なものです。無理矢理まとめてしまえば「悪いのは老人ではなく、社会の変化の方だ」という意見なのですが、個人的には老人たち自身の性格や育ってきた環境も悪いのかな、と思います。ので「もっと老人側の責任も追及しろよ」という意見の方で、問題には白黒つけないとスッキリしないという方は読まない方がいいかも。
一方でこの本は「なぜ現代社会は(老人に限らず)人々をキレさせるのか」という考察としても読むことができます。僕としては、こっちの視点の方が「なるほどなぁ」と感じる部分が多くありました。一番面白かったのは、本書に何回も登場する“帯グラフ人間”というキーワード:
私たちは、「待つこと」(「待たされること」)に、なぜイライラするのか、おっとりかまえることができないのか。なぜ待ち時間はムダだと感じるのか。
私にはそのヒントとなる記憶がある。おそらくそれは誰もが共有している記憶だ。
私が小学生だった1960年代、夏休み前になると、みんな自分の生活時間を帯グラフにして提出させられたものだ。帯グラフは人によっては円グラフかもしれない。(中略)
24時間を分節化してコントロールするという発想は近代的なものであり、学校の時間割は近代的人間をつくるための実地訓練となった。こうして帯グラフ的な時間感覚を持つ、いわば「帯グラフ人間」がつくりだされていったのである。
藤原さんはこの「帯グラフ人間」になることが、成功を勝ち取るという「神話」によって社会が成立している、と見なします。確かに時間管理は、仕事の上でも重要な要素の一つですよね。しかし「帯グラフ」的な時間感覚を持つことは、以下のような弊害をもたらします:
人が生きていくということは、多元的でポリフォニーな時間を受け入れることだ。が同時に、一元的でホモフォニーな帯グラフ的生活という矛盾した理想を抱え込むことで、ストレスや混乱が生まれている。「待つこと」が「待たされること」として否定され、帯グラフの失敗として記録される。
もし帯グラフが完璧に達成されるとすれば、他者が自分の帯グラフを侵食することなく、それに従ってくれるときだ。あるいは、まったく孤立した存在として生きる場合。しかし、そんなことはありえない。
自分が「今日はこうやって行動しよう」と頭の中で打ち立てた帯グラフは極めて個人的な(≒ホモフォニー)な時間割でしかありません。しかしそういった「時間割」は人間の数だけ存在(≒ポリフォニー)していて、それぞれが他人の時間割に干渉しながら成立している、と。従って自分の帯グラフに執着することは、必然的にストレスを感じることにつながり、他人にストレスを与えることにもつながるわけですね。さらに藤原さんは、現代のIT技術が「帯グラフ」を強化する傾向にも言及されています:
そもそも20世紀の情報技術は録音、録画など、時間の枠(同時性、もしくは一過性)をこえる欲望をひとつの原動力として進展してきた。通信、交通もすべて時間と距離の短縮を目指した。その短縮は究極までいきつき、一部では時間をなくしてしまった。
この技術やシステムは、他者の時間割を尊重することに役立つし、自己の帯グラフを保つことにも便利だ。
私の場合も、見知らぬ人からいきなり電話をもらうことが極端に減った。そんな電話はほとんどがセールスである。仕事の依頼などは手紙も稀にはあるが、たいていはメールが中心だ。そのメッセージには「何日の何時ごろ電話を差し上げたらいいでしょうか」というようなセンテンスがふくまれる場合もある。電話さえも、いまでは時間割を乱す「反」帯グラフ的な道具になりつつある。
いや、いまやメールさえも個人のペースを乱す「反」帯グラフ的な道具、と見なされつつあります。最近流行のライフハックの中にも、メールチェックを減らすことが「帯グラフ」を保つ秘訣のように書かれているのを目にした方もいらっしゃるでしょう(自分でも過去にそんなライフハックを紹介した気が……)。
こうして私たちは、無意識のうちに「今日はこうしよう」という帯グラフを作成し、それを守ることに執着する姿勢が強化されているのかもしれません。個人的にも、電車が遅れていたりするとすごくイライラするのですが、よく考えると特に急ぐ理由も無かったりします(もちろん絶対に遅刻できない場合もありますが)。単に「この電車なら目的地に○時○分に着く」という予測/スケジュールが覆されてしまうことにイライラしているわけですね。一方で他人の帯グラフを守ることも重要とされ、守ろうとしない人はマナー違反として非難の対象となる、と。
もちろんこうやって帯グラフを作って生きることは、現代では必要不可欠です。1週間後が締切りなのに、何の計画性もなく仕事を進めるなんてことはできないですからね。しかし少しでも、帯グラフから受けるストレスを減らすことはできないのでしょうか?
個人的には、帯グラフではなく「To Do リスト」をメインにして行動することで対処できるんじゃないか、と思います。つまり「9時に会社に到着して、12時までに書類作成、13時まで食事休憩とし、その後15時まで資料収集……」というような方法で計画を立てるのではなく、「今日やらなければいけないことは、優先度の高い順番に1.書類作成 2.資料収集……」のように行動する、と。これならば突発的な作業が発生しても、「午前中は書類作成するつもりだったのに!!」とストレスを感じるのではなく、「書類作成までは終えることができたな」と達成感を感じることができるのではないでしょうか。
もちろん「帯グラフ人間」も「To Do リスト人間」も、生産面という点では差はないでしょう。しかし「To Do リスト」で作業を管理しておけば、心と行動を柔軟にすることができ、他人の帯グラフから受けるストレスを最小限にできるはず。少なくとも暴走老人ならぬ「暴走サラリーマン」にはならないように注意しなければ、と最後は自分自身に向けられたメッセージとして『暴走老人!』を感じた次第でした。
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