『論より詭弁 反論理的思考のすすめ』を読了。週刊ダイヤモンドで「もっと売れて良い本」として紹介されていたので読んでみたのですが、確かに良書でした。ただ内容に難解なところがあるため、「もっと売れて」いないのも不思議ではないかなという感想です。
この本を読む最大の価値は、「詭弁とレトリックは紙一重」ということを実感できるという点でしょう。ある場面においては「詭弁」とみなされることでも、場面が変われば詭弁とは気づかれなかったり、正当な議論として認められたりする。例えばあのイエス・キリストでさえも詭弁の使い手だった、と言われたらどう思うでしょうか?
有名な「罪のない者だけ石を投げよ」という説話に対して、本書ではこんな疑問が投げかけられています:
こちらは、より典型的な「人に訴える議論」のかたちをなしている。ある女が姦通の罪を犯したことと、それに向かって石を投げようとする人々がまた別の罪を犯していることとは、独立して考えるべき別の事柄である。その女を非難する人々に問題があるとしても、それによって当の非難が不当であることの根拠にはならない。
だがイエスは、罪の問題を、その罪を糾弾する資格の問題に巧妙にすり替えた。そして、論理学者が「人に訴える議論」を詭弁と見なす最大の根拠は、この論点の「すり替え」という操作にあったはずだ。が、クリスチャンである彼らが、『聖書』を詭弁の書として恥じ入ったという話は聞いたことがない。
そう言われてみれば、確かにイエスが言ったことは「お前にそんなこと言う資格があるのかよ」という議論と一緒ですよね。ブログのコメントでこんなことを書かれたら、「うるせー、オレに言う資格があるかどうかと、意見が正しいかどうかは別の問題だよ!」とブチ切れてしまうでしょう。
ということで、イエスですら詭弁の使い手で、使う人が権威者であれば詭弁に気づかれないこともあるのでした、というオチで終わらないのが本書の良いところ。上記のような「発言内容ではなく発言者の人格を攻撃する」という例に対して、こんな反論が試みられています:
しかし、開き直るようだが、論点をすり替えてなぜいけないのか。そもそも、「論点のすり替え」などというネガティヴな言葉を使うから話がおかしくなるので、「論点の変更」あるいは「論点の移行」とでも言っておけば何の問題もない。要するに、発話内容という論点が、発話行為という論点に変更されただけの話である。
「いや、議論のすり替えじゃなくて、まさに君に資格があるかどうかという点を問題にしたいのだ」という議論も可能だと。そこから先は、「罪のある人が他人の罪を罰するのは悪いことだ」「当事者が議論に参加すると、他の人々の意見を歪めてしまう」などという主張持ち込むことができるでしょう。こうなると、もう何が詭弁なのか正当な議論なのか、訳が分からなくなってきます。
実際、純粋な意味での「論理的思考」などというものは、実験室のような理想化された状況の中にしか存在しないものなのかもしれません。発言が行われた順序、発言者の資質・人格、発言者とその相手との力関係など、現実世界で行われる議論は様々な要素で汚染されていることが、本書では嫌と言うほど解説されています。そうした前提を理解したうえで、なお純粋な論理的思考・論理的議論にこだわるか、臨機応変に詭弁を活用するか――本書を読み終わった後、考え込んでしまうことでしょう。
個人的には後者、詭弁を臨機応変に活用するという立場に立ちたいと思います。って宣言することではないかもしれませんが、最近問題になっているネガティブ・コメント、通称ネガコメにも、この詭弁を理解・活用する力=「詭弁力」が役立つんじゃないでしょうか。意図的かどうかを問わず、誰かが詭弁を用いて攻撃してきた際に、それを理解して反論するのにこの本は非常に参考になるでしょう(先ほどの「人格攻撃」パターンは一例で、他にも「あーこういうコメント書く人っているよなー」という例がいくつも出てきます)。そしてしつこく絡んでくる相手には、バレない程度の詭弁で煙に巻く……なんてことを勧めてはいけないかもしれませんが、「スルー力」を身につけたいけどどうしても付かない、という方はいっそのこと「詭弁力」取得を目指すのも一案かもしれませんよ。
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