何の脈絡もない書評です。たまたま書店で『鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮』という本を見かけて購入、読了しました。この本、原著が書かれたのが1979年で、日本語版が出版されたのが1984年。そして今回購入した文庫版が出たのが1991年と、まったく新しい本ではないのですが、なぜか平積みされていたので買ってしまいました。
本書を衝動買いした理由は(文庫版なので安かったという理由は別にして)ただ1つ。著者であるノエル・ペリン氏の問いかけに興味を刺激されたからです。その問いかけとは何か、訳者あとがきから引用してみましょう:
鉄砲は、天文十三年(天文十二年という説もある)に種子島に漂着したポルトガル人がもたらして以来、日本中に燎原の火のごとくに広まった。十六世紀後半の日本は、非西欧圏にあっては唯一、鉄砲の大量生産に成功した国である。それにとどまらず、同時代の日本は、ヨーロッパのいかなる国にもまさる世界最大の鉄砲使用国になった。ときあたかも戦国時代であり、日本中が戦争に明け暮れする中で、鉄砲を前にすれば刀剣が無力であることは証明ずみであった。にもかかわらず、日本人は鉄砲をすてて刀剣の世界に舞い戻った。武器の歴史において起こるべかざることが起こったのである。日本史の教科書には「鉄砲の伝来」については必ず書かれている。しかしこと「鉄砲の放棄」については余り着目されていない。ペリンはここに着眼した。
確かに「鉄砲は種子島に伝来した」という出発点はよく知られた出来事であるのに、その後日本において鉄砲がどのように扱われていったのか、という点はあまり注目されていません。しかし普通なら武器は常に進化し続けるものであり、16世紀に鉄砲が伝来しているにも関わらず、19世紀に入っても新撰組という剣術集団が成立していたのはよく考えれば不思議な話である、と。本書はこの不思議な現象を、鉄砲伝来から普及・廃棄、そして幕末・明治維新以降にかけての「再伝来・再導入」までを時系列で追ったものです。
ただ残念なのは、著者自らが「これは歴史書ではない」と宣言しているように、詳細なリサーチを基にした論文ではありません。もともと雑誌の記事として作成されたもので、文庫本バージョンでも注を除く全151ページしかなく、様々な視点や要素が登場するものの掘り下げは不十分。また日本版の副題に「日本史に学ぶ軍縮」とあるように、この本は純粋に歴史を分析するというよりもむしろ「武器の進化を止め、後退までさせた日本は素晴らしい。その姿勢に学び、現代の軍縮を実現しよう」というイデオロギーを主張することにも力が置かれています。そのためイデオロギーで色眼鏡がかかってしまっているように感じられる箇所もあり(まぁ「日本は素晴らしい!」的な部分が度々登場するのは読んでいて気持ちが良いのですが)、歴史学を期待して読むと失望されるかもしれません。
ただ頭の体操というか、「これこれこういう要素があるんだけど、あなたはどう思う?」という問いかけとしては、本書は非常に面白いと思います。恐らく受け取り方は人それぞれだと思いますが、個人的に核となる部分だと感じたところを抜き出してみると:
- 日本にとって鉄砲は「外国から持ち込まれた武器」であったにもかかわらず、それを短期間で自らのものとする技術力があり、鉄砲伝来の年(1543もしくは44年)から数年後の1549年には織田信長が500挺の種子島銃を注文しているほど。また雨中での使用も可能にする仕掛けなど、日本独自のカスタマイズも行われた。
- 鉄砲が伝来したのは戦国時代。その時代背景から、日本全国で製造・使用される武器となり、日本は当時の一大軍事大国となった。つまり技術的な後れや、普及の遅れといったものが銃規制が上手くいった要因とは考えにくい。
- 一方で、この新しい武器には「誰でも強い殺傷力を手にできる」という問題点があった。つまり剣や槍などの扱いに熟練した者が支配階級になるという、従来のヒエラルキーを根底から破壊する可能性があり、支配階級にとっては諸刃の剣だった。
- この問題点が、支配階級が銃規制へと動く一因となった。同じ問題意識は欧州諸国の支配階級も持っていたが、彼らには他国との戦争があり、銃があれば国民をすぐに兵士として利用できることにも魅力を感じていた。一方日本では徳川幕府成立後、支配階級間での武力衝突が抑制され、支配階級が自らの地位を危うくする武器の規制に本気で取り組むことができた。
という感じ。これはあくまでも本書を読んだ限りの印象ですので、実際どこまで正しいのかについては、いろいろとご指摘いただければと思います(そもそも江戸時代でも日本国内には大量の銃があった、という指摘も)。ただこの本を読んでなるほどと感じたのは、「銃はそれまでの武器とは違い、練習しなくても大きな殺傷力を手に入れられるという点で、支配階級の存在意義を失わせる武器だった」という視点。もちろん昔の原始的な銃ですから、使い勝手や殺傷力という点で過大評価してはいけないのでしょうが、ある意味で銃は「破壊的イノベーション」的な存在だったのでしょうね。それを端的に示している文章として、本書ではこんな一節が登場します:
鉄砲に立ち向かう場合、勇敢さはかえって不利になり、攻守ところを変えて自分が鉄砲隊となると、もはや相手の顔かたちは見分けがつかなくなったであろう。その場合、鉄砲隊何千の一員として、攻撃をしかけてくる敵を掃討すべく土塁の背後で待ちかまえておればよいわけだ。それには大した技術もいらない。技量が問われるのは、今や兵士ではなく、鉄砲鍛冶と指揮官たる者に変わったのである。織田信長の鉄砲隊が、本来の武士というよりも、農民もしくは郷士や地侍あがりのものであった、というのもそのためである。ともあれ、鉄砲をもつ農民が最強の武士をいともたやすく撃ち殺せることを認めるのは、誰にとっても大きな衝撃であった。
「既存のパラダイムを壊す」という意味での破壊力に気づかずに、あるいは気づいていた上で支配層が銃を受け入れてしまったために欧州諸国では民衆による革命が起き、受け入れることを拒否したため日本では封建的なパラダイムが長生きした……という見方も可能かもしれません。
さらに銃は「破壊的イノベーション」たる存在だったので、従来の思考にとらわれない人物であった織田信長が上手に活用できたのだ……などといろいろ話を膨らますことができるのですが、あまり空想の話をひっぱると歴史に詳しい方に怒られてしまいますので、この辺で終わりにしておきたいと思います。いずれにしても、文庫本ながらいろいろと興味をそそられる内容でしたので、興味のある方はぜひ。
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