先日久しぶりに、試写会に参加してきました。映画のタイトルは『黄金のアデーレ』。美術が好きな方はこれだけでピンと来るかもしれませんが、クリムトの名画をめぐる、ある実話に基づく映画です。
ということで映画についての記事なので、ネタバレしないように解説しますが、なるべく情報を入れずに見たいという方はこの辺りでお戻り下さい。
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古代ギリシャやエジプトなどの例を紐解くまでもなく、芸術は時の施政者や権力と強く結びついてきました。希有な美術品は国の宝とされ、時には観光資源という現実的な価値を持つ存在となりながら、丁重に保護されてきたわけです。
それだけに美術品は、力による略奪の対象にもなってきました。たとえばルーブル美術館には、ナポレオン1世の時代に諸国から集められた美術品・歴史的遺物が多数収められています。また「略奪」という言葉はふさわしくないかもしれませんが、経済的な力を持つ国や有力者が、オークションなどを通じて財力で美術品・歴史的遺物を集める場合もあります。いずれにしても、多くの人々から価値を認められる品であればあるほど、それをめぐって争いが起きてしまうわけです。そして奪われたものを取り戻そうという、美術品をめぐる返還論争もあちこちで発生しています。
難しいのは、略奪という行為が悪い結果だけをもたらすとは限らないという点です。よく指摘される点ですが、先ほどのルーブル美術館を始めとして、「力のある国に集められているからこそ、適切な保管がなされ、さらに体系立てた展示を誰もが見学できる」というメリットもあります。いまISが支配地域にある美術品・歴史的遺物を破壊するという暴挙に出ていますが、「あくまで美術品保護という観点だけで考えるならば」、イラクよりも先進国に移されていた方が良かったとも考えられるでしょう。
いったい美術品は誰が所有するべきなのか。それをどう判断したら良いのか。この難しい問題を考えさせられる、ひとつのケーススタディとなるのが、今回の映画『黄金のアデーレ』です。
ただケーススタディとはいっても、何らかの答えに導いてくれるものではなく、よりこの問題の複雑さを増す内容なのですが……。簡単にあらすじを述べると、主人公はロサンゼルスに住む高齢の婦人と、駈けだしたばかりの新米弁護士。一見普通の2人が、なんとオーストリア政府を相手取って、超有名な絵画の返還を求める訴えを起こします。その絵画とは、クリムト作『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』。英語では"Woman in Gold"というのですが、これは映画の原題でもあります。どうして"Woman in Gold"と呼ばれるのか(そしてこの名前が映画にも採用されたのか)にはきちんと意味があるので、ご覧になる方はその辺りも注意してみて下さい。
なぜ主人公たちは無謀とも思える訴えを起こしたのか。実は主人公の一人である82歳の婦人、マリア・アルトマンは、アデーレ・ブロッホ=バウアーの姪にあたる人物。叔母のアデーレのことをよく覚えていて、その後彼女の家族がたどることとなった凄惨な運命を象徴する存在として、『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像』を取り戻そうとしたのでした。
いまでこそ『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像』は名画として、「全人類の宝」的な受け取られ方をしていますが、もともとはアデーレと家族のために描かれたもの。歴史的遺産として共有されるべき名画であることは事実ですが、一方でマリアたちにとっては、かけがえのない家族の宝なわけです。しかもこの絵は、ナチスがオーストリアを占領した際に、ナチスによって無理やり略奪されていました。その後めぐりめぐって、オーストリア政府の所有物としてベルヴェデーレ宮殿美術館に展示されていたこの絵を、いったい誰が所有すべきなのか――簡単には割り切れない問題が突きつけられます。
どうしてマリアがこの作品にこだわるのか、映画では原題(実際にこの論争が起きた2006年頃)と過去(オーストリアがナチスに占領される前後の時期)を巧みに切り替え、マリアの心情を描くことで、彼女が抱いている気持ちを力強く伝えてきます。もちろんこの作品はフィクションとして作られていますので、実際にはマリアがどのような思いで行動したのかは想像するほかないのですが。
実は試写会には山田五郎氏によるトークショーが付いていて、その場で山田さんがこんなことを語られています:
美術作品は美術館で観るものと考えている人がほとんどだと思いますが、美術作品は買うものでもあるんです。ですので、ぜひ皆さんも美術作品を買って楽しんでみてほしい。そうすることで絵の見方も変わってくるし、この映画を観た時の感じ方も違うと思います。
現代ではどうしても、芸術作品を「鑑賞」という形で消費することが多く、「アートとは美術館や博物館に展示されているもの」という感覚を受けることが多いと思います。その視点だけから考えた場合、マリアの行動は残念ながら支持しがたいものになるでしょう。しかしこの映画を観ているうちに、芸術作品には極めて個人的な意味が宿ることがあるのだという点に気付かされました。もちろんその個人的な意味が、人類共通の価値を必ず上回るとは限りません。ただそうした個人の思いを無視して、国家が作品を所有し続けるというのも、一種の「略奪」と言えるのではないか。『黄金のアデーレ』は、そうしたもうひとつの視点を与えてくれる作品でした。
僕の妻も絵を描く人で、うちにはお金を出して買った絵画が何点かあります。ポストカードのような印刷物ではなく、作家さんによる肉筆の作品です。それはマリアにとっての『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像』ほどの強い意味を持つものではありませんが、山田さんが仰るように、「美術館に収められている作品」とは違った意味を教えてくれる存在です。作品のメインテーマとは異なりますが、そうした芸術との新たな付き合い方を考えさせてくれるというのも、『黄金のアデーレ』という映画の価値ではないかと思います。
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果たしてマリアの訴えはどのような決着を見るのか。実話が基になっているということで、話の筋は変わりようがないのですが、作品を通して観るとこの「結末」にある程度納得できるのではないでしょうか(個人的にかなりマリアに感情移入して観ていたという理由もあるかもしれません)。話の展開もスリリングですし、新米弁護士の成長っぷり?に胸躍る展開もありますので、純粋に娯楽映画としても楽しい作品だと思いますよ。
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