相変わらずニュースから隔絶された一日だったので、「メタブログ」というか、このブログに関する記事を1つ。
先日「タグではフォークソノミーを実現できない」というエントリを書いたのですが、それに対して多くの方々からコメント・トラックバック・ブックマークをいただきました。ありがとうございます。かなり賛否両論な内容だったにも関わらず、煽りっぽい内容が無かったことも嬉しく思いました。普段もやもやと感じていたことを書いただけだったので、無視されるか煽られるだけだろうと思っていたのですが、思いがけず様々な情報をいただくことができました。
「賛否両論」と書いたのですが、実は少し確信犯的な行動だったのも事実です。「タグではフォークソノミーを実現できない」という挑戦的なタイトルにしたのもその1つ。こうしておけば目に留めてくれる人がいるだろうと思って付けたのですが、予想以上に反応していただいて大変嬉しく思っています。また中途半端な議論を補ってくれる人がいるだろう、という期待も少し抱いていました。
ちょうどそんな「裏の狙い」(というほど良く考えての行動ではないですが)を的確に表現されている方がいらっしゃったので、ちょっと引用させていただきます:
■ タグでFolksonomyは実現できる(Casual Thoughts about Any Phrase)
本題とは関係ないが、POLAR BEAR BLOG:”タグではフォークソノミーを実現できない”は議論を巻き起こしながら考えを深堀するために、生煮え状態を承知で公開するというブログのよい面を発揮している良エントリーだと思う。はてブでのコメントの多さがそれをうかがわせる。
まさに「タグではフォークソノミーを実現できない」は「生煮え」エントリで、紙媒体のメディアであんな内容を書いたらそれこそ無視・煽り・契約打ち切りのいずれかが待っているでしょう。しかし生煮えを承知で食べて、さらに料理方法をあれこれアドバイスしてくれる人がいる「ブログ」というメディアは、いったいどんな存在なのでしょうか。
Web 2.0系企業が抱く思想の代表とも言える「50%ルール」というものがあります。蛇足っぽく解説すると、ソフト/サービスを50%完成した状態(※テストもしていないような状態という意味ではなく、必要最低限の機能を実装しているという意味で、実装された機能については100%完璧に動くようにしてある)でリリースして、ユーザーの意見を取り入れながら100%を目指すという考え方ですが、「生煮え」も言わば50%ルールのようなものです。違うのは扱うのがソフトか議論かだけで、外部の意見を取り入れて完成を目指すのはまったく一緒です。
はっきりとした根拠があるわけではないのですが、Web 2.0という文化の中ではソフトも議論も、フローとして意識されるのではないでしょうか。つまりそれは未完成であり、中途半端なものであり、自ら参加して変えて行くものと捉えられているように思います。このような意識の中では、たとえソフト/議論にミスがあったとしても、それによって全体が否定されることはありません。あくまでも「仕掛品」なのだから、自ら修正して/修正されるのを待って先に進もうという意識が働きます。こういった意識が「50%ルール」や「生煮え」を許しているのではないでしょうか。
これまでのメディアでは、記事は「ストック」であり、「完成品」でした。読者がそこで展開される議論に参加する権利はなく、出されたもので判断するしかありません。従って情報の発信者には大きな責任が課せられ、読者もそれを期待したわけですが、ブログではそこが根本的に異なるのでしょう。それを「無責任」と捉えて批判する向きもありますが(確かに「煽り」的記事はありますし)、フロー的メディアが生む価値にも目を向けるべきだと思います。
脱線してメディア論っぽい内容まで踏み込んでしまいました。メディア論はさすがに「生煮え」の料理を食べてくれる人が多いとは思えないので、恐いのでこの辺にしておきます。ともあれ、今後も問いかけ型のエントリをさせていただくことがあると思いますが、どうぞよろしくお願いします。
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