増田の「読んでいると恥ずかしいゴミ本 (改題前 10代で読んでいないと恥ずかしい必読書)」を読みました。まぁ釣りなわけですが、ちょいとマジレス。
ここに挙げられているのは、いわゆる「古典」と呼ばれている本。
- そんな古い本読んだって何の役にも立たない
- それなのに権威と崇められていてバカみたい
- 読んだヤツは「これ読みました」ってカッコつけたいだけだろ
という辺りが「読んでいると恥ずかしいゴミ本」と改題された理由なのでしょう(最初に「読んでいないと恥ずかしい」というタイトルを付けておくことで、「この中で○冊読みました!」という反応を釣り、「読んでる方が恥ずかしいんだよー」いうオチをつけたかったのだと想像)。確かに古典を読んでも給料が倍になるわけじゃないし、「マクルーハンは『メディア論』の中で……」とか言われるとカチンとくることがあるのは否定しません。しかし、だからと言って古典を避けて通るのはもったいない話だと思います。
前回のエントリで書いたように、古典が生き残ったのには何かしら理由があるはず。しかし「持っているとモテるから」「知的に見えるから」という理由や、「学生にレポートを書かせるのにちょうどいいから」というだけの理由で、何十年も(プラトンの『国家』に至っては何千年も)語り継がれるわけはありません。時代を超えて役に立つ知識があるから、いまだに出版されて読み続けられているのでしょう。
従って「なんかムカツク」「古くさい」というだけの理由で古典を避けているのはもったいない話。最近『人間失格』の表紙を漫画『デスノート』の作者が描き、人気を呼んだということがありましたが(参考記事)、仮に『人間失格』の中身が薄っぺらだったらそこまで話題にならなかったでしょう。偏見で「これはつまらない本だ」と決めつけてしまうのがどれだけ愚かなことか、この話は示していると思います。
ということで、たまにはここで挙げられた古典に目を向けてみるのも良いのでは。最新のニュースなら、毎日イヤと言うほど浴びているのですから。
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