妻が買ってきた本『Ex‐formation植物』が面白くて読んでいるのですが、中でも第5章「都市を映し出す植物」が秀逸でした。
そこに掲載されているのは、様々なビルに木漏れ日が映り、樹木や木の葉の姿をした影が現れている写真。例えばこんな感じ(以下はネットに落ちていたフリー素材で、本書の写真を転載したものではありません):
こんな光景は見慣れたものであり、何の変哲も感じませんが、本書ではこんな解説がなされています:
僕らは植物そのものを見ていなくても植物の存在を感じている。建築物に落ちる樹木の影、すなわち木漏れ陽もそのひとつである。
コンクリートの壁や石の床に落ちる樹木の影は、くっきりと濃く動かない建物自身の影に比べて流動的で常にさざめいている。風の動きに揺らめき、葉の間を通ってくるまさに木漏れ陽はちらちらと揺動してとどまることがない。境界もぼんやりと焦点が定まらない。その揺らぎに呼応して、僕らは風を感じ、陽差しを感じている。その影はまさに自然を感じるメディアなのだ。
言われてみれば、確かにこのような影を目にすれば「そこに樹木があるに違いない」という感覚を抱くでしょう。たとえ樹木自身の姿や、緑色が視界に入らなくても。さらにその影がゆらゆらと揺れることで、樹木だけでなく、そよ風の存在までも意識することができる――ただの影が「自然を感じるメディア」というのは大げさではなく、まさにその通りだと思います。
また別のページには、こんな指摘も:
植物の形を記憶している
建築物に映し出されたわずかな影の形からでも、私たちは、植物の姿を鮮明に感じることができる。
仮に樹木を全く見たことがない、という大人がいたとしたら、木漏れ日を見ても樹木を感じることはないでしょう。しかし普通の大人であれば、木漏れ日は樹木の存在を示す記号として認識されており、仮に存在しているのは影だけだったとしても「元」となるべき樹木の存在を感じられる、と。もしかしたら、オフィスの中に樹木の形をした影を投影する(できれば「そよ風」に反応して揺動する)装置をセットしておくだけで、多少なりとも従業員のストレスを軽減する効果が得られるかもしれません。
記号化された「部分」があれば、「全体」が存在しなくても、本質を感じることができる。ある意味、以前紹介したアート"Bright Blind"もこの現象を応用したものかもしれません。こんな「部分」をいろいろと見つけ出して、アートやデザインに応用できたら楽しいだろうなぁ。
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