毎朝NHK教育の「にほんごであそぼ」を観てから家を出るのですが、ときおり宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」がモチーフにされています(「にほんごであそぼ」をご存知ない方のために解説すると、諺や詩、日本の古典文学中の一文などを取り上げ、子供にも分かりやすい形式にして遊んでしまおうという子供番組です)。「雨ニモマケズ」についてはあまりにも有名ですので解説不要だと思いますが、念のため青空文庫をリンクしておきましょう:
で、今朝改めてこの詩を朗読されて、やっぱり良い詩だなぁと感じたのですが……なぜか今回だけは、ある一箇所が妙に引っかかりました。その部分というのはここ:
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
「雨ニモマケズ」全体が「欲を持たず、利他的に生きたい」という内容なわけですが、ここに来てそのトーンは一気に最高潮を迎えます。誉められられることはない。けど、誰かの苦になることもない。そんな存在でありたい……考え過ぎかもしれませんが、これは「大それたことなど考えないから、僕を傷つけないでおくれよ」というメンタリティのように感じてしまったのでした。
だから何だというわけではないのですが、なんかこの詩を改めて読むと、大きなチャレンジに失敗した後の悲しみのようなものを感じます。敗北感というか。で、Wikipedia の解説を読んで知ったのですが、この詩は宮沢賢治自身が発表したものではないのですね。賢治の死後、手帳に書き残されていたものが見つかり、それが「詩」として発表されたと。それを知った上で再度読み返してみると、賢治自身はこの詩というか「愚痴」を積極的には世に出したくなかったのでは?などという可能性も感じます。
というわけで、「大きな夢を追って、そして大失敗してもいいじゃん。ハッハッハ!」みたいな米国人的メンタリティも口直しに用意しておかないと、「雨ニモマケズ」はバランスが悪いんじゃないのかなぁとふと感じた次第です。ま、非常に日本人的な感じがする詩で、これはこれで良いのだけれど。
残念ながらそのようなことはないでしょう。
宮沢賢治はノートに記載したものを心象スケッチと呼び、自分の心の動きを言葉で綴る事をさします。
これはかなり徹底していて、自分が周りの人間に対して「これから心象スケッチをします」と語ったことも手帳に記述したぐらいです。
宮沢賢治の手記は言葉の通り受け取るのが良く、あまり裏を読むのは好まれません。
wikipediaでも
>研究史の上では(個々の著作自体の意義とは別に)積極的な意義を持つものではなかった。
とかいてあるのは、その為だと思われます。
というより、wikipediaをベースにしては何事も間違えますよ。
あれは読む必要がないモノです。
投稿情報: TrueSeventh | 2008/12/17 23:20