ちょうど先週、ドイツの大手信用調査会社Schufaがネット上の情報(FacebookやTwitter、LinkedIn、さらにはGoogle Street Viewに至るまで)を収集し、信用力の判断に活用できるかどうかを探るプロジェクトをスタートさせていることが報じられていました(参考記事)。この報道が世論や政治家からの批判を巻き起こしたために、Schufaはプロジェクトを撤回することを発表。しかしその後も、こうした手法の是非について議論が続いています。
とりあえず今回は中止ということで決着がついたものの、今後も同様の動きが続くことは確かでしょう。最近「ビッグデータ」などの流行語に象徴されるように、データを分析することで隠れた事実を明らかにしようという動きが活発になってきました。それ以前に、最新の技術や高度な技法の登場を待つまでもなく、人々が自ら日々の行動を記録してくれるソーシャルメディアが宝の山であることは明らかです。企業がそれに手を伸ばすことに思いが至らない、という方が難しいのではないでしょうか。
ところがそんな明らかな(はずの)リスクがあっても、ユーザー自ら個人情報を書き込むという行動は終わろうとしません。むしろ「Twitterで犯罪自慢」のような現象を見ると、その傾向が高まっているようにも感じられます。いったい何故なのでしょうか。
この点に対する答えとして、「人々がバカになっているから」とか、「(情報を共有する)デメリットよりもメリットの方が大きいから」といった説が唱えられており、さらには「ザッカーバーグの陰謀だから」という人まで登場しています。個人的には2番目の説に近い意見なのですが、メディア論で有名なマーシャル・マクルーハンが面白い言葉を述べていることをご紹介しましょう。
マクルーハンと言えば「メディアはメッセージである」や「ホットなメディアとクールなメディア」などの有名な言葉が思い出されますが、それ以外にも多くの著作や論文などを残しています。青山学院大学の宮澤淳一教授が書かれた『マクルーハンの光景』の中に、『外心の呵責』という論文が翻訳されて掲載されているのですが、その中にこんな一説が登場します:
ナルキッソスが自分自身の外側(投影、拡張)に恋をしてしまったように、人は自分の拡張でしかない最新の小道具や小細工に必ずや恋をしてしまうらしい。自動車の運転をしたり、テレビを観たりするときの私たちは、外部に突き出た自分自身の一部分を扱わなくてはならないことを忘れがちである。そんなとき、私たちは自分たちの作った仕掛けの自動制御装置になってしまい、仕掛けの求める、即時的で機械的な仕方での反応をすることとなる。ナルキッソス神話の要点は、人は自分の姿に恋をする傾向があるということではない。むしろ、自分の拡張に対して、それと知らずに恋をする傾向がある、ということである。これは私たちのテクノロジーすべてに通じる格好のイメージを伝えていると思う。
マクルーハンはあらゆるテクノロジー(メディア)を人間の身体や神経の拡張と捉えていて、例えば「車輪」は「足」が拡張されたもの、「自動車」は「全身」が拡張されたものと説明されます。スマートフォンならさしずめ、耳と口と目が拡張されたものと言えるでしょうか。さらにGPSを使って位置情報まで共有できることまで考えれば、自動車とは別の意味で「全身」を拡張していると言えるかもしれません。
ともあれマクルーハンは、人間は「自らの身体の拡張」であるはずのテクノロジーに、自ら(「ナルシズム」の語源となったナルキッソスのように)恋をしてしまうと指摘します(自らつくり上げたものに恋をしてしまうという点では、同じギリシャ神話のピグマリオンの方が適切かもしれませんが)。次の「自動制御装置になる」という点については、宮澤先生が次のように解説されています:
「自動制御装置」(servo-mechanism)という表現は『メディア論』に実例が挙げられています。インディアンはカヌー、カウボーイは馬の自動制御装置。会社の重役は、時計の自動制御装置だそうです(原書46頁、邦訳48頁該当)。つまり、「カヌー」「馬」「時計」というテクノロジーを扱うことだけに夢中になる様子です。テキストに戻れば、「自動車の運転をしたり、テレビを観たりするときの私たち」も「外部に突き出た自分自身の一部を扱わなくてはならないことを忘れがち」だとあります。自動車をひたすら運転し続けたり、テレビを観続けたりといった「自動制御装置」になってしまうということでしょう。
ここにマクルーハンは「根本的な問題」を見ます。「テクノロジーに対する偶像崇拝」(idolatry of technology)である、と指摘します。「人は自分の身体の拡張でしかない最新の小道具や小細工に必ずや恋をしてしまうらしい」という記述に立ち戻ります。私たちは自分の拡張に「それと知らずに恋をする」のです。原文のfall in loveは、「恋をする」では実感がわかないかもしれません。要するに、魅せられ、夢中になり、濫用している自分に気づかず、耽溺してしまうのです。
例えば自動車があると歩ける距離も自動車を使ってしまったり、あるいはつい遠出してしまったりすることがあるように、テクノロジーに恋をした結果、そのテクノロジーが本質的に持つ機能の虜になってしまうということでしょう。そんな催眠術のような話があるわけない、と思われるかもしれませんが、例えば携帯電話を操っている時間のうち、どのくらいが本当に必要なコミュニケーションのために費やされていたと言えるでしょうか。つぶやいたツイートのうちどのくらいが、本当の意味で能動的に投稿されたものと言えるでしょうか。
そう考えると、「ネットに接続し、他者とつながり、画像・映像を共有し、位置情報まで明確にする」というスマートフォンの機能、あるいはスマートフォンとウェブサービスの組み合わせが、その所有者たちをプライバシーを共有する「自動制御装置」の状態に陥らせているのかもしれません。そういった状態をつくり出しているのがザッカーバーグの陰謀なのであれば、まぁ陰謀だということになってしまうのかもしれませんが、それよりも「テクノロジーによって拡張された身体の方に飲み込まれてしまう」という人間の本質の部分にも目を向けるべきでしょう。
だとすると、既に最近のモバイル/ソーシャルテクノロジーを手にしている人は、「これからはシェアやソーシャルの時代!」と情報を公開する方向へ意識を持っていくより、逆に制限する方向を意識するぐらいがちょうど良いのかも。僕自身は完全にテクノロジーの虜になってしまっているので、抜け出すのは難しそうですが。
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ソーシャルメディアの加速が、ビッグデータの苗床になり、その粘着力が肥料となっている。
だったら、その苗床から芽が出て、収穫する人や食べる人がいるから、やはりGoogleが勝ち続ける可能性が高い。
個人としては、自家栽培型の情報モデルが、より完成された人が、価値が高くなると思う。
投稿情報: タッチペン店長 | 2012/06/22 21:32