Rauru Blogで、興味深い記事が投稿されていました。専門外の領域に足を踏み入れるのは危険ですが、少しだけその記事を読んで考えたことを:
センセーショナリズム(Rauru Blog)
人々の求めているものは「信頼できる情報」ではなく「面白くて盛り上がれる情報」なのではないか、従ってセンセーショナルな記事による弊害を防ぐためには、情報の信頼性を測るシステムだけでは不足なのではないか、という記事です。
記事中で言及されていた2つの事例と、先週から続いているForbesの一件を見ると、確かにBlogosphereはセンセーショナリズムで動いているように思えます。Forbesの記事に対する「識者と目される人々」からの反応も、図らずもForbesの記事が指摘していたBlogの弊害を示しているかのようですし。(Shel Israelが公開質問状まで書くとは思いませんでした。)
先日僕はForbesの事例から、「今後情報の信頼性を測る仕組みが生まれてきて、それがブログというメディアを正しく利用する一歩になるのでは」というような記事を書きました(Web 2.0時代における「情報の信頼性」とは?)。しかし既存メディアですらセンセーショナリズムを防げていない状況で、信頼性を測る装置だけでBlogosphereの暴走を止められるのか?と言われると、難しいと答えざるを得ません。
ただ僕は、それ以上の防波堤を作るのは結局「限られた人々が情報をコントロールする仕組み」でしかない思います。人々がセンセーショナリズムを好むのであれば、マスによってチェックや社会的制裁を与える仕組みは期待できません。結局は「問題のあるブログをGoogle/Technoratiで検索できないようにする」「TypePadのアカウントを停止する」「Memeorandumがソース対象ブログから外す」などといった、誰かの判断が入る仕組みに戻っていくのではないでしょうか。
限られた人々によるコントロールが悪いという訳ではありませんが、それは結局既存の新聞社やテレビ局が果たしている役割が、GoogleやTechnoratiによって置き換わるということでしかないでしょう。極端な話、10年後の世界では検索エンジンやアグリゲーションサービスは認可制になって、「偏った意見を上位に表示しているサイトは1週間の業務停止」なんていた規制が生まれているかもしれません。
文化という一番変えることのできないものに頼ってしまってはいけないのですが、誰もが情報発信できる状況を維持しながらセンセーショナリズムを食い止めるのであれば、やはり人々の意識が変わる必要があると思います。地道な教育や啓蒙、そんなもの役に立たないと言うのであれば、何らかの権力に介入してもらうしか道は無いでしょう。
1コンサルタントが口を挟むのもなんですが、ブログを考えるには組織論や心理学、ジャーナリズムまで正しく理解していないといけないようです。
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