人はある問題にそれほど興味を惹かれていない、もしくは深く考えることができない状況(言い換えると中心で情報を処理するというよりもむしろ、周辺的に情報を処理している状況)では、ある考えを支持するかどうかを判断するのに、述べられた内容の質よりも発言数の多さに依存する傾向が高い。
B.J. フォッグ『実験心理学が教える 人を動かすテクノロジ』より
ただし、ユーザーは常に自分ができることよりも多くを望んでいるということにも注意を払うべきでしょう。
もっともいい例が、検索サービスの検索オプション(高度な検索)機能です。実際に検索でこうした機能を利用する人は全体の1~2%に過ぎません。しかし、ユーザーに「この機能が欲しいですか」と尋ねると、驚いたことに40~50%の人々が「YES」と答えるのです。
Daniel Read 「Web 2.0が検索サービスに突きつける課題」(CNET Japan)より
2つの異なるソースからの引用ですが、意図するところは同じ。「人の意見は信用できない」ということです。
勘の良い方は、次に何が続くのか想像できると思います。そう、Web 2.0に関するオライリー論文です。
BitTorrentはWeb 2.0の重要な原則を体現している。それは、利用者が増えれば、サービスは自然に改善されるというものだ。Akamaiがサーバを増やすことによってしかサービスを改善することができないのに対し、 BitTorrentの場合は消費者がこぞってリソースを持ち寄る。同社のサービスには「参加のアーキテクチャ」、すなわち協力の倫理が織り込まれており、サービスは基本的に情報の仲介役として、ウェブの周辺部をつなぎ、ユーザー自身の力を利用するために存在している。
Web 2.0:次世代ソフトウェアのデザインパターンとビジネスモデル(前編)(CNET Japan)
僕がWeb 2.0を支持する様々な意見の中で、最も疑問に思うのがこの「ユーザーへの信頼」です。はたしてユーザーを信頼し、「50%の完成度でリリース」しても、Web 2.0時代ならサービスは良い方向へ発展して行くのでしょうか?
僕はそうは思いません。たとえ悪意があるユーザーがいたとしても、そのようなユーザーは一部なのだから、多くの「善意ある」ユーザーが集合することで悪意を凌駕できるというのがWeb 2.0信奉者の信念のように思うのですが、果たしてそうでしょうか。Rauru Blogさんなどで紹介されている、Wikipediaを巡る混乱の話(「Wikipedia 上での誹謗中傷」や「Wikipedia vs Accountability」などを参照のこと)などを読んでいると、とてもそうに思えないのです。また以前から書いているような、「サイバーカスケード」のような問題もあります(「イントラブログと集団成極化」や「Re: センセーショナリズム」などを参照のこと)。
この点をめぐるWeb 2.0支持者とそうでない人々の意見の差は、もしかしたら性善説と性悪説のどちらを支持するかという差なのかもしれない--そんなことを考えていたときに、冒頭の2つの意見を目にしました。これが正しいとすると、ユーザーにサービスを正しい方向に導いてもらうためには、ユーザーは善であると同時に「サービスの改善について強い関心を持ち、熟慮した上で自分の意見を持っている」必要があります。
ユーザーがサービスを良い方向へ導く力を持っていることについては、否定するつもりはありません。またユーザーの意見を聞くことで優れた機能が生まれる可能性があることについても、僕は十分正しいと思っています。しかし「可能性がある=必ずそうなる」という訳ではありません。「ユーザーの意見を取り入れるから大丈夫」ではなく「どうすれば数多くのユーザーの意見(ノイズ)から、正しい意見を発見し、それを企業を発展させるアクションに結びつける仕組みを構築するか」という点をもっと議論する必要があるのではないでしょうか。
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