いきなり大上段に構えましたが、昨日のエントリの続きです。はてなブックマークでいただいたコメント+Buzzurl でいただいたコメントへの反応でもあるので、先にそちらも読んでいただければと思います。
「記録したと思う安心が、忘却を促進するらしい」。ここで重要なのは、「忘れる」が何を示しているのかだと思います。
『思考の整理学』は決して、頭に知識を詰め込むことを奨励している本ではありません。むしろ「すてる」「整理整頓」などの表現で、一度学んだものを「忘れる」ことの重要性を説いています。従って昨日引用した箇所も、「情報は一字一句頭に記録せねばならない、そのためにどうすべきか」を語ったものではないと感じています(僕の説明不足で、間違った印象を与えてしまってごめんなさい)。
特に「整理」と題された章では、こんなことが指摘されています:
これまでの教育では、人間の頭脳を、倉庫のようなものだと見てきた。知識をどんどん蓄積する。倉庫は大きければ大きいほどよろしい。中にたくさんのものが詰まっていればいるほど結構だとなる。
せっかく蓄積しようとしている一方から、どんどんものがなくなって行ったりしてはことだから、忘れるな、が合言葉になる。ときどき在庫検査をして、なくなっていないかどうかをチェックする。それがテストである。
倉庫としての頭にとっては、忘却は敵である。博識は学問のある証拠であった。ところが、こういう人間頭脳にとっておそるべき敵があらわれた。コンピューターである。これが倉庫としてはすばらしい機能をもっている。いったん入れたものは決して失わない。必要なときには、さっと、引き出すことができる。整理も完全である。
コンピューターの出現、普及にともなって、人間の頭を倉庫として使うことに、疑問がわいてきた。コンピューター人間をこしらえていたのでは、本もののコンピューターにかなうわけがない。
少し長い引用になってしまいましたが、検索エンジン+モバイル端末が普及した現代では、より上記のような状況が強くなっているといえるでしょう(ちなみにこの本が最初に出版されたのは1983年で、四半世紀前の本でこういった主張が読めたのは驚き。さらにこの後「コンピューター人間より創造的人間を」「知識をためる倉庫としての頭脳から、新しいことを考え出す工場としての頭脳へ」という流れになり、ごく最近出版された本を読んでいるかのようでした)。
ノートやブクマ(≒PC/ネット)は外部記憶装置なのだから、そこに記録して忘れてしまえばよい。その指摘はおそらく『思考の整理学』の主張通りで、仮にこの本が2008年に書かれていたとしたら、同じ表現になっていたと思います。ただここで「忘れる」というのは「忘れていても必要なときに思い出し(外部記録から取り出し)、活用する」という意味で、「記録したことすら忘れてしまい、思い出せない」という意味では当然ないでしょう。前者の意味での「忘れる」を実現するために必要なインデックスをどう心に残すか。その1つの手法として、「まずは心に焼き付けることを優先し、ノートを取らないでおくべきではないか」が提案されているのだと解釈しています。
結局この議論って、現代における「知識」とは何か、を考えているのではないでしょうか。変な話、「忘れた」と認識している状態であれば、つまり「役立つ情報があるのは分かっているんだけど、それがどこにあるか/どうやって使えばいいか分からない」という状態であれば、ググるなりネット上で応援を頼むなりできるのがいまの世界です。そんな世界では「知識=何かを覚えていること」ではないでしょう。ノートやブクマに記録する/しないを問わず、ある知識の存在を正しく理解していること、それが新しい意味での知識なのだと思います。
うーん、うまく言葉にできないな。つらつらと書いてしまいましたが、これも僕の印象に過ぎないので、「なんか違うなぁ」と感じた方は、是非『思考の整理学』を読んでみていただきたいと思います(僕の説明が悪いばかりに「この本は使えなさそうだな」と思われてしまっては失礼な本なので……)。
最近のコメント