反対意見を表明することは当然の権利なので、異なる意見に接したときは「そういう考えもあるのか」という態度で臨むようにしているのですが、時として「それって感情論なんじゃないの」と感じる時があります。今朝の日経新聞「ネットと文明」もそんな意見の1つでした:
■ 検索脳の限界 ~ ネットと文明 第7部 「覇権」の功罪(3) (日本経済新聞 2006年10月20日 朝刊第1面)
以前から賛否両論のある特集「ネットと文明」の第7部。今回批判の対象となっているのは、検索エンジンを活用することについて。
議論の流れはこんな感じ:
- Google のラリー・ペイジは「グーグルを人間の脳に移植したい」と言っている。どうやら Google が未来人に期待する能力は、最も効率的に最適解を見つける「検索脳」のようだ。
- 教育界でも、検索能力は必須の学力になりつつある。例えば聖心女子大学では、情報探しの手際を問う「ネット入試枠(※)」を新設した。
- だが「検索脳」に限界はないのか?
- 体得した知識こそが検索でもモノをいうはずだ。
- 実物と向き合ってこそ、検索で得られない感性が磨かれる。
- 工業デザイナー、深沢直人氏はネット検索を使わない。「必要な要素は衣食住や雑踏にあり、繊細な五感があれば感じ取れる」からだ。体得した知識と感性で足りないパズルの一片に気づく能力。深沢デザインの原点は「気づき脳」だ。
- 人間らしい創造力を生むためには、無数の情報を論理でつなぐことが必要。
実はこの記事の副題は「創造の源は『気づき力』」となっていて、要は情報を集めるだけでは新しいことは生まれない、と言いたいようです。確かに検索する「だけ」ならそれは情報の蓄積であって、知識や価値の創造ではありません。しかし検索エンジンを活用することを「検索脳」という象徴的な言葉で言い換え、検索エンジンにはできない面のみに光を当てるのは、検索が悪であるかのような印象を与えてしまうのではないでしょうか。
少なくともこの記事で扱われている例は、情報を効率的に集めることを否定するものではありません。深沢氏の例で言えば、新しいデザインをするのに検索エンジンを頼る人などそもそもいないでしょう。どんなツールにもできること・できないことがあるのですから、検索だけではできないことを挙げて「限界がある」と否定的な評価をするのはズルイような気がします。
最近この記事のような、検索エンジンを活用することに対する拒絶反応が目に付きます。紙に載せられた情報への信頼と、その反面としてのネットへの不信、苦労せずに情報を手に入れることへの反感、他人の知識に「ただ乗り」することへの反感など、その多くは感情的な議論が元になっているのではないでしょうか。そういった「アンチ検索主義」は、検索エンジンというツールをどう利用していくかに関する議論を歪めるだけのように思います。
面白いので、日経の記事を抜粋しておきます:
昨年の課題は「パン食と米食はどちらが健康に良いか」。受験生はパソコンを使ってネットでデータを収集し、説得力のある資料を作らなければ不合格になる。
「情報過多の時代だからこそ真偽を判断する力が大切」。教授の永野和男(57)は企業も検索力のある人材を求めていると説く。
ちなみに永野教授の研究室ホームページはこちら。ついでに関連記事へのリンクも貼っておきます:
■ 情報化時代に対応した特色ある大学入試と評価法 (せんせいの樹)
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