『まぐれ―投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか』を読んでいます(原題は"Fooled by Randomness"で、「偶然にだまされて」といった意味)。僕が行った書店では「投資関連本」コーナーに置かれていたけど、哲学書のコーナーに置くべき本かも。まだ読了していないので、書評はまた改めて。
で、タイトルの話。まるで雑誌『LEON』に書かれていそうな一言ですが、同書にこんな話が出てきます:
お年寄りは希にしか起きない事象に直面した経験が多く、だから、筋の通った話だけど、そういう希にしか起きない事象に抵抗力があるのだ。交尾の相手選びにはそれと同じような進化の仕組みが働いているという主張があるのを知って私は驚いた。つまり(全体として見ると)メスは、他の条件が同じなら、健康な若いオスよりも健康で年寄りのオスを交尾の相手に選ぶ傾向がある。歳をとっているのは優れた遺伝子を持っている証拠だからだ。毛並みが灰色になっても生きているオスは、生きていた間に起きた突然の変化に対して高い抵抗力を持っている可能性が高い。
確かに「歳をとっている=それだけ様々な環境変化に打ち勝つ能力がある」ということですから、遺伝子を遺すパートナーとしては都合が良い、という論理は筋が通っています。まぁ人間の場合は科学力やら財力やら政治力があったりするので、長く生きているから生命力がある、とは必ずしも言えないのですが。
「だからオヤジになってもモテるよ、良かったね」というのが本書の主張ではもちろんなくて、同じ論理を情報に当てはめてみたら、というのが本題です:
あるアイディアがいろいろな時代を経て長い間生き残ったとしたら、そのアイディアは相対的により適応しているということだ。一方ノイズ、少なくともノイズの一部は、その間に取り除かれている。数学的には、進歩とは新しい情報の一部が過去の情報よりも優れているということであって、新しい情報の平均が古い情報に置き換わるということではない。つまり、疑わしいときはシステマティックに新しいアイデアを否定するのが一番いいやり方だ。
(中略)
さて、情報についてもまったく同じことが言える。情報の問題点は、気が散るところや一般的には役に立たないところではない。有毒なところだ。後の章では、情報の選別と観察頻度に関するもっと専門的な議論を通じて、とても頻繁にニュースが入ることの価値が怪しいものであることを説明する。ここでは、時の試練に耐えて生き残ったやり方にしかるべき敬意を払うなら、愚にもつかない現代マスコミのたわごとなんか一切相手にせず、不確実性の下で意志決定を行うときには、マスコミには可能なかぎり接しない方針を持つのが正しいはずだ。投げつけられる「緊急」ニュースの山に、ノイズのりましなものが何か含まれているとしても、干草の山に針一本程度だ。マスコミは人の注意を引いてなんぼの商売なのに、みんなそれがわかっていない。マスコミにとって、黙るぐらいならそれこそ何でもいいから喋ったほうがましなのである。
つまりマスコミを通じて発信されるニュース=「新しいこと」はノイズである可能性が非常に高く、そこからシグナルを選別する労力はバカにならない、と(本当に伝えたい情報があるから発信するのではなく、単に注目を集めたいから手当たり次第にノイズを発信しているのだ、というのは個人的にも痛い指摘です)。一方、長い間言及されている情報=「古典」は様々な状況変化を乗り越えてきたものだから、自分にとってもシグナルである可能性が高い、ということですね。
だからといって新しい情報にはまったく触れなくてもよい、ということにはならないでしょうが、「若さ」だけが情報の価値を判断する基準になってはならない、という戒めだと思います。例えば毎日のように「~するための○○の方法」のような情報が発信されるわけですが、それにはてブがいっぱい付いているからという理由で飛びつくよりも、数日後、あるいは数ヶ月・数年後に「このアドバイスは役に立った」と言及される情報こそ注意すべきなのかもしれません。
そう考えると、Google に対抗する検索エンジンとして「長い間コンスタントに言及されているページ」が結果で上位に表示されるエンジン、なんてのも考えられるかも。いずれにしても、たまには最新ニュースを無視して、(本に限らず)古典と呼ばれる知識に目を向けましょうということで。
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