昨日に引き続き『フューチャリスト宣言』の感想を少し。まだ3分の2を読んだところなので、勘違いや読み違いの部分があったらご指摘下さい。
梅田望夫さんと茂木健一郎さんという、今をときめくお二人の対談だけあって、ハッとさせられる部分が随所にありました。お二人とも積極的に執筆活動(含むブログ)をされていることもあり、以前の著作と被る部分も多いのですが、新書ですし「梅田/茂木論のまとめ」的に捉えて読んでも面白いのではと思います。
ただ1つだけ、この本を読んでいて釈然としない部分を感じました。なぜだろうと考えたときに、頭に浮かんだのは「自由意志論」という言葉です:
自由意志(じゆういし)は、行為者の(何かを選択する)意志そのものが非決定的(自由)であるとする学説、あるいは少なくとも行為は究極的に行為者自身の選択のみに「依存」するとする哲学上の学説である。
(Wikipedia より引用)
日本の社会は間違っている。しかしそれは文化の問題であり、個人の意思の力で変えられるのだ -- 『フューチャリスト宣言』は、そんなメッセージで満ちているように思います。例えばこんな感じ:
それに対して、日本は敷かれたレールの上での点数争いに過ぎない。MITにみられるようなコンセプト・メイキングを大切にする風土、粗削りでも新しいコンセプトを出すということに最大の価値を置くという文化は、ウェブ社会にみごとに呼応していて、そういう文化が日本にないことが、おそらく日本のネット社会の1つの限界ではないかと思うんです。
(46ページ)「エコノミクス・オブ・インフォメーション・セキュリティ」みたいなセンスの論文は、日本からはまず出てこないのではないでしょうか。たとえばウィキペディアにしても、日本のアカデミズムは往々にして権威に対する挑戦としか見ない。だから腐すことしかしない。
(72ページ)だから、僕が期待しているのは、そういうことを自然に理解する感覚をごく普通にもっている若い世代ですよ。2015年になると、1975年生まれの人が40歳になる。40歳になると、企業組織でもどこでもかなり実権を持つ。2015年ってすぐ来ますよ。日本はその頃に変わる。2020年になれば、45歳以下が全部その世代になりますからね。
(133ページ)
乱暴に言い切れば、「日本の文化は間違い、アメリカの文化は正しい、しかしネット文化に親しい若者達が日本社会を変えるはずだ」という感じ。少なくとも僕はそんな印象を受けました。僕がまだ20代であれば、お二人のメッセージに感動し、シリコンバレー行きのチケットを予約していたかもしれません(そして失敗してただろうけど)。しかし30もとっくに過ぎたせいか、自由意志論では社会は語れないように思うのです。
人間は環境によって大きく左右されます。それは
僕とシリコンバレーの出会いもアップルでした。コンサルタントになってから本当に大きな仕事を任されたのは、アップルの日本戦略だったのです。1989年ですから、20代の末でした。そのとき初めてシリコンバレーに行って、アップルの人たちと付き合いだしたんですね。それでシリコンバレーに魅了されちゃったんだけど。
(38ページ)
という梅田さんご本人の例によっても証明されているでしょう。「狼に育てられた少女」の例では極端だとしても、例えばアメリカ人でも日本で(日本人によって)育てられれば、日本語が母国語となるはずです。個人がどう考え、どう行動するか。そして社会がどのような動きをするかは、社会構造によっても大きく左右されるものです。
例えば『テレビはインターネットがなぜ嫌いなのか』では、「通信と放送の融合」が進まない理由が、テレビを取り巻く環境やビジネスモデルの側面から解説されています。僕は素人なので、この辺の説明は「本を読んでください」としか言えないのですが(akiyan.com で詳しい解説が読めます)、その理由は「テレビ局が消極的だから」という精神論だけではありません:
わざと死蔵させることが、テレビの視聴率を高める秘訣なのだ。インターネット企業がいくら提供してほしいと頼み込んだところで、門外不出である。
だがネット界の人々は、放送ビジネスに対する理解が浅い。死蔵させることで、テレビ番組のありがたみを演出し、成功してきたテレビの法則を理解していない。だから、放送済み番組が、テレビ局の倉庫に眠っている。それを使ってネットで商売しないのは、もったいなすぎる、と考える。そしてみんなで寄ってたかって、
「テレビ局はインターネット事業に消極的」
などとテレビ批判を始める。テレビ業界とインターネット業界の間には、共通の言語で議論するベースすらないのではないか。
(『テレビはインターネットがなぜ嫌いなのか』 25ページ)
仮にある状況において、アメリカ型の文化というか、アメリカ人のものの考え方「だけ」を持ち込んだらどうなるでしょうか。強靭な精神力を持っていなければ、そんな考え方をする人物は自分の思うように社会が動かないことに悩み、失望するだけでしょう。アメリカ型の社会にしたければ(必ずしもそれが正解だとは思いませんが)、社会構造を俯瞰して、それを維持している仕掛けを変更してやる必要があるはずです。
かつて日本には、大学闘争という時代(1960年代)がありました。僕はその時代に生きていたわけではないので、詳しく論じることはできませんが、当時学生だった人々も「反権威」の思想を根強く持っていたはずです。しかしそういった人々が40代を過ぎ、「企業組織でかなりの実権を持つ」ようになったとき、変化が生まれたでしょうか -- 社会が個人の自由意志だけで動いているのなら、既に日本は変わっているはずです。それは「若い頃の熱意を持ち続けられなかった人々が悪い」のではなく、「社会は自らの構造を保ち続ける力があり、個人の意識など簡単に変えてしまう/個人の意思だけでは変化は生まれない」からではないでしょうか。
いろいろ書いてしまいましたが、『フューチャリスト宣言』で指摘されている多くの問題は、お二人が仰る通りだと感じています。だからこそ、自由意志から一歩踏み込んで、日本社会が「これからの時代には合わない精神」を維持している理由は何なのか、システムのどこが問題なのかまでを考えて示して欲しいと感じました。
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