なんか教育ネタが続いてしまいますが、ここは自分のブログなんで気にしないっと。
先日「日本でもホームスクール(学校に通わせず、家庭で子供を教育すること)が増えるかも」と書いたところ、「他人との交流が大切だ」「学校は勉強するだけの場じゃない」という反応を多くいただきました。誤解を招いてしまったことをお詫びしますが、僕自身、義務教育は必要ない(=小中学生は学校に行かなくても良い)と考えているわけではありません。大勢の方々と同じように、やはり何らかのコミュニティに属して、年が近い子供たちと接することは成長に欠かせないと思います。僕の娘はまだ保育園なのですが、早くも「集団生活の効果だなぁ」と感じさせる部分があるし(親バカで目が曇っているのでない限り)。
しかし日本人は、「集団生活信仰」とでも呼ぶべきものを持ってはいないでしょうか。例えば何らかの理由(病気やいじめ等々)で子供を学校に通わせられなくなったとしましょう。が運良く金銭的な問題が解決され、「読み書きそろばん」という意味での教育は施せるようになったとします。「それでも健やかに成長してくれるかどうか不安だ」と感じる人の割合は、米国人よりも日本人の方が高くなるように感じます(まぁ根拠の無い主観でしかないのですが……けど米国でホームスクールが盛んなのは、インフラが整っているというだけでなく、集団から外れることを厭わない精神にも一因があるのでは)。
別に集団生活がプラス面しかないのであれば、仮に「集団生活信仰」と呼べるものがあっても構いません。しかし同じ経験をしている人ばかりに囲まれていると、「目の前にいる人間は僕と同じ思考回路を持っているはずだ」という、身勝手な期待を持つようになってしまわないでしょうか?その結果、同じ体験をしてこなかった人物が理解できなくなったり、排斥してしまうリスクはないでしょうか。
米国に留学していたとき、ショックなことがありました。授業中、日・米・独の義務教育の違いを追ったドキュメンタリー番組を観たときのこと。日本の小学生たちが皆で掃除したり、給食を食べる姿が画面に映し出された時、それを見た他の国の学生達が一様に驚いた声を上げました(学校にもよりけりでしょうが、一般的に米国では行わない活動とのこと)。僕だって、米国人と日本人がまったく同じ教育を受けていただろうとは思っていませんでしたが、「給食」「掃除」という部分で異質性を指摘されるだろうとは予想もしなかったわけです。普段同じような体験をしてきた人々とばかり接していると、頭で「人はそれぞれ違う」と理解していても、無意識のうちに共通性を期待してしまうようになってしまうように感じます。
もちろん、だからと言って「集団生活するな」「義務教育禁止!」などと叫ぶつもりはありません。副作用が生まれる可能性にも目を向けて、それを防ぐような手だてを講じるべきではないかというのが僕の考えです。例えば(またネット万能論かよ、と言われそうですが)ネットを通じて他国の子供たちと触れ合う授業をつくるとか、他国の教材に挑戦してみるとか。外国人のコミュニティが近くにあるなら、交流の機会を増やすとか。いや「同じ日本人の中でも、こんなに差があるのだ」ということを理解させるために、海外の日本人学校の生徒と交流するとか、違う年代の人々との話し合いの場を持つとか。何らかの方法はあると思います。
自分の子供にホームスクールの道を歩ませようとは思いませんが、仮にホームスクールで育った子供がいても、自分も子供も彼らを色眼鏡で見ないようにすること。少なくともそれだけは実践したいと思います。
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