門外漢だけど参加してみます。以下のエントリを読んで。
■ 才能のない子にどうやって美術への進路を思いとどまらせるか (はてな匿名ダイヤリー)
僕は上の文章を、「アートの才能が無い生徒は、将来路頭に迷わないよう美大への進学を諦めさせるようにしている」という告白だと理解しています(書き手が教師なのか、教師だとしたらどの教育機関に所属しているのかよく分からないのですが)。その上でちょっと感想を。
以前、村上隆氏の『芸術起業論』を読んだときに、彼がいかに「売れる努力」をしているのかを知って驚きました。彼は「自分は天才肌ではない」と言い切り、欧米のマーケットで何が評価されるかを徹底的に考え、実際に評価されて日本に逆輸入する。そして、そんな戦略的な態度を取っていることを隠そうともしていません。例えば第1章からしてこんな感じ:
第1章 芸術で起業するということ
- 芸術には、世界基準の戦略が必要である
- なぜ私の作品は1億円で売れたか
- 芸術作品の価値は、発言で高めるべき
- 芸術は、想像力をふくらませる商売である
- 芸術の顧客は、栄耀栄華を極めた大金持ち
- 業界を味方につけて重圧をかけるべき
- 業界の構造を知らなければ生き残れない
- 経済的自立がないと、駒の1つになる
- 「金さえあれば」が言いわけならダメだ
アートギャラリーのようなディーラーが言うのならまだしも、芸術家本人の発言とは思えません。個人的には村上氏の考え方に賛同するところが多かったのですが、やはり反発も激しいようで、Amazon のカスタマーレビューでも「星1つ」が4件もついています。逆に星5つが8件ですから、賛否両論のある意見なのでしょう。
本書の中に、こんな一節があります:
芸術家が作品を売って生計を立てる。これは通常のビジネスです。
ところが、芸術と金銭を関連づけると、悪者扱いされてしまいがちです。
「アイツは芸術を売りもの扱いにしている。すべてブランディングのエサにしているじゃないか」
どこが悪いのでしょう。
人間の欲求につながらなければ、絵なんて誰も楽しめません。
絵画は紙や布に絵の具を乗せた痕跡です。痕跡自体に価値なんてありません。
価値のないものに「人間の想像力をふくらませる」という価値が加えられているのです。
つまり、芸術とは、想像力をふくらますための起爆剤が、いくつもしかけられていなければならないのです。
ただし芸術家が一人で作るしかけには限界があります。
大勢の人間の知恵を集めた結晶体である必要があります。
画商やアドバイザーや、プレーヤーやオークションハウスや美術館の人に、作家、作品の成否を相談し、シナリオを作って作品の価値を高めてゆくのは当然の手順だと言えるのです。
またこんな箇所も:
日本人はアートにスーパーオリジナルみたいなものを求めすぎてしまうから成功していないのではないかと思うんです。だけど本当は柳の下にドジョウは何匹も隠れているんです。
もちろんオリジナルは大切なことですが、オリジナルでありさえすればそれでよくて、あとは何も営業をしなくていいし説明なんてしなくていいというのは誤解ですよね。
考えてみてください。
ゴッホにしてもピカソにしてもデュシャンにしてもウォーホールにしても彼らを説明する文脈であるサブタイトル(副題)の方が重要だと思いませんか。
ぼくは小さい頃からピカソはよくないと感じていました。
確かに才能はあるけど腕力でしあげているだけですから。
ゴッホのことも「正直こいつは本物なのか」と思いました。
「何の才能もないのに。やっぱり自分の耳を切り落としたのが評価に響いているんだろうな」
そう考えていたのです。
絵としての才能で言えばボナールの方がずっとすばらしいのに、なぜかゴッホが高い評価を受けている理由は、おそらく「端的に説明できる物語」があるからではないでしょうか。
「作品がよくなくてもそこにドラマが付加されれば、ゴッホのように生き残ることができる」というしかけが、現代美術における発明なのです(もちろん絵画的な力に根拠がなければ生き残らないのですから「ゴッホはダメ」と言ってるわけではない。……と若年読者に注釈をしておきます)。
この「売れるためには、作品自体だけでなく付加価値の方も重要」という考え方は、村上氏だけのものではありません。例えば村上氏のプロモーションも手がけた、ギャラリー経営者の小川登美夫氏は著書『現代アートビジネス』の中でこう述べています:
現代アートの場合、作品の評価や値段は「どのような文脈をつくるか」ということに深く関係しています。もちろん作品の表現が一番重要ですが、もう一つは作品のプレゼンテーションの仕方が問題になってきます。
例えば、どこのギャラリーで個展をするかということも、その作家の評価を左右する問題です。ギャラリーにも評価があります。国内外で評価されているアーティストを扱っていて、セカンダリーのマーケットが安定して確立している、などがその基準になるでしょう。
また、それぞれのギャラリーが持つ客層も関係しています。美術業界に影響力のある人がコレクションしてくれるほうが作品の評価が上がります。そのような人々に作品を見てもらう機会を持つことは、アーティストにとって重要なのです。
ちなみにこの『現代アートビジネス』の中でも、村上隆氏がどのように自分をプロモーションしていったかについて触れた箇所があるので、興味のある方は手に取ってみて下さい。
さて、本題に戻ります。アートの才能が無い若者がアートの道を志していたら、教師はどう対応するべきでしょうか。もちろん冒頭の記事のように、「諦めさせる」というのも1つの手段だと思います。しかしそうしてしまう前に、アートの才能が無いことを指摘した上で、それでもアートで生計を立てることが可能かどうか一緒に考えてあげることはできないのでしょうか。例えば村上隆氏の考え方のように、「いま求められている・評価されているアートはこんなタイプだから、下手ながらもそれに近い作品を生み出していくことで、少しでも注目されて作品が高値で売買されるようになるのではないか」と戦略を練ることが可能でしょう。もちろんそんな戦略を考えるには、教師の側に才能が必要であり、才能が無い教師には「諦めてもらう」しかありませんが。
芸術と金儲けを結びつけるのは野暮だ、という考え方も確かにあるでしょう。仮に生徒本人がそのような考え方をしていて、「私は貧しくても創作活動を続けたい」というのであれば、才能の有無など関係なく芸術の道へと送り出してやるべきです。しかし「好きなことで喰っていけるようになりたい」というレベルであれば、「じゃあ一家4人ぐらいを養っていける程度のお金を毎年手にするための戦略を考えよう」という発想になるのは正しいと思います。才能が無い人には夢を諦めさせるべきという意見にだって、喰っていけるかどうかという価値判断がその根底にあるのですから。
と、アート業界の現状も、アートを教える教師の置かれた立場も、そしてアートを志す若者の考え方もまったく分からないままにコメントしてみましたが、「一流の才能はないけれど、それでも好きなことで生計を立てるにはどうしたら良いか」という悩みは何もアートの世界に限ったことではないでしょう。みな多かれ少なかれ自分の才能・興味と現実に折り合いをつけ、納得できるバランスを探し続けるものだと思います。「諦めろ」でその場は済むかもしれませんが、いずれ同じような壁にぶち当たる日が必ず来るわけで、そのためにもそれを切り抜ける方法を身につけさせてやるのが教師・年長者の役割ではないかな、と思います。
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