独特な行動を取る人のことを、「あの人は自分の世界に生きているから」と表現することがありますが、文字通り「自分の世界」というものが人々の行動を決めているのかもしれません。
1934年という、実に70年以上前に出版された本ですが、『生物から見た世界』という本を読みました。著者のヤーコプ・フォン・ユクスキュルは動物比較生理学の研究を行った学者で、「環世界」という概念を提唱した人物です。『生物から見た世界』は「環世界」の概念を解説するための本で、古典的名著という位置付けがされているそうです。
「環世界」とは、簡単に言えば「主観的に捉えた世界」のこと。通常、私たちは客観的な意味での「環境」が存在していると考えています。色があって、形があって、音や臭いがあって……という世界ですね。そしてあらゆる生物が同じ「環境」で暮らしていると考えているわけですが、しかしよく考えれば、その「環境」というのは人間という生物が捉えた主観的な世界でしかありません。実は個々の生物は、それぞれが持つ知覚機能で捉えた主観的な世界=環世界の中に生きている、それを理解しなければ生物の正しい姿が理解できない、というのがユクスキュルの主張です。
例を挙げましょう。ミミズは巣穴に何かを引き入れる際、木の葉なら先端をつかみ、松葉ならばつけ根をつかんで引き入れるという行動を取るそうです(こうすればスムーズにそれぞれの対象物を巣穴に入れられる)。その行動を見て、
長年にわたって、ミミズの環世界には形に対する知覚標識があると考えられてきた。古くはダーウィンが、ミミズは木の葉も松葉もその形に応じた扱いをしていると指摘している。
(中略)
ところが、この仮定は誤りであることがわかった。ミミズは、ゼラチンにひたした形の同じ小さな棒をどちらの端も区別なくその穴に引き入れた。しかし、その棒の一端には乾燥したサクラの先端の粉末を、他端には葉のつけ根の粉末をまぶしておくと、ミミズは本物の葉の先端とつけ根であるかのように、棒の両端を区別したのである
(73~75ページ)
とのこと。つまり人間は姿や形のある「環世界」に生きているわけですが、ミミズは姿や形という概念のない、しかし味という感覚のある世界に生きていると。それを理解していないと、「ああ、ミミズも形で判断して行動を取っているのだな」といった間違った判断をしてしまうわけです。
この発想、「単に相手の視点から物事を考えろって意味だろ」という風にも感じられますが、微妙に異なります。そもそも共通の土台となる、客観的な意味での「環境」すら存在しないというのが環世界という発想ですから、視点を変えただけでは対象物を理解することはできません。いったん自分の見ている世界をチャラにして、相手がどんな知覚機能を持っているかを何らかの形で把握した上で、それに基づいて「相手が暮らしている世界を再構築する」という作業が必要になるわけです。
この姿勢は、何も生物学だけでなく、企業や他人の行動を理解する際にも重要なものだと思います。例えばある企業が必要以上に慎重な行動を取っている場合、実は彼らの「環世界」では、重大な危機が姿を現しているのかもしれません。それを避けるように右へ左へと動く姿は、端から見れば「何でフラフラ歩いてるんだ?」ということになるでしょう。バカな奴だと思ってまっすぐに歩いたら、「地面に埋まっていた地雷を踏んでしまった」となるか、「彼らよりも先にゴールにたどり着くことができた」となるかは場合によりけりですが……いずれにしても、自分に見えている世界の上で他企業の行動を理解しようとしても、正しい答えを得ることはできません。
他人や他社の動きを理解するには、彼ら自身の行動だけでなく、住んでいる世界まで含めて把握すること。そうすれば正しい理解ができる上に、いままで自分には見えていなかった「世界の異なる捉え方」というものが得られるチャンスなのだ、ということかもしれません。
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