ネット上で(正確にはその一部界隈で)話題を集めやすいネタの1つが、新聞批判でしょう。やれ特定の思想に偏っているだの、考えが浅いだの散々非難され、ジャーナリズムに徹することが期待されます。しかし、毎日新聞が起こした WaiWai 事件のような例は論外として、なぜ私たちは新聞にジャーナリズムがないことを批判するのでしょうか。
ちょっと話がずれますが、最近『「中立」新聞の形成』という本を買ってきて読んでいます。なぜそんな本を、というのは次の書評を読んだのが理由でした:
■ 「中立」新聞の形成 : 書評 : 本よみうり堂 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
旧来の新聞史では、検閲や発禁など国家権力による直接の弾圧策ばかりが強調されてきた。本書ではむしろ「事実」「実業」「中立」のイデオロギーを側面から強化する仕組みとして、新聞紙条例の正誤・弁駁(べんばく)権(第六章)や新聞紙法の保証金制度(第七章)が詳論されている。
こうした誘導と育成によって成立した「中立」新聞こそ、国家権力が必要としたコミュニケーション装置である。国家から主体的には自由な新聞こそ、体制維持に不可欠な機能を果たしてきた。
海外の新聞には、政治的・思想的な偏りを隠さないものが珍しくない。それがなぜ日本では「中立」が大前提となったのか――それは明治政府の政策に原点があるのではないか、というのが内容。詳しい経緯はまだ読んでいる途中なので(ごめんなさい)脇に置くとして、要は「中立=政治的に中立=政治的論争からは一歩身を引き、どんな意見も(つまり政府の意見も)伝える」新聞を明治政府が求め、それが意図的に作り出されたと。
確かに「中立」は崇高な価値のように思えますが、時と場合によっては「面倒な争いは避ける、誰も助けない」という意味になります。また人々の心に「新聞は中立であるべきだ」という意識があれば、新聞が政府批判を行った際、政府が「『中立』であるべき新聞が何という偏った姿勢を取っているのだ!」と主張して攻撃を仕掛けることが可能になるでしょう。まぁ現実には「偏った」新聞は既に存在していますし、偏った姿勢で政府を攻撃することは必ず忌み嫌われる、ということにはなっていませんが。
この説の真偽はともかくとして、面白いと思ったのは「自分が抱く新聞に対する意識は作られたものである可能性がある」という点です。いや、作られたというのは言い過ぎで、昔から続いている「常識」を無批判に受け入れている、といったところでしょうか。新聞は中立で、特定の視点から報道してはいけない。新聞は「主張」ではなく「事実」を伝えなければならない。新聞はジャーナリズムに徹しなければならない――そんなの当たり前だよ、と感じるような認識でも、いまの状況に照らし合わせて再度検証してみる必要があるのかもしれません。
で、冒頭の話に戻るのですが、「新聞=ジャーナリズム」と捉えるのも、「そんなの常識だよ、改めて考えるまでもない」という態度に陥っているからではないでしょうか。いや、新聞がジャーナリズムを実現してくれればそれはそれで良いのですが。しかし新聞がジャーナリズムからはほど遠い状態にあるのであれば、彼らに期待するのは止めて、別の道を探そうという方向性に議論が向かっても良いように思うのです。考えてみれば、企業が営利を追求するのは当然のことですから、(現在のように企業が発行するのが主流な形の)新聞はジャーナリズムとは根本的に相容れない存在だと見なすことも可能かもしれません。一方で現在は「無責任」の象徴のようなネットにも、よりジャーナリズムに近いような要素を見出すことができます。
そもそもジャーナリズムという言葉自体、定義があいまいなまま使われているように思います。いったいどんな状態が理想とされていて、その中で新聞にどんな役割を担ってもらいたいと思っているのか。新聞はその役割を担うのに最適な存在なのか、ネットはどこに位置付けられるべきか。いったん全ての前提をクリアして、ゼロベースで考えてみることによって、単なる「新聞ってバカだよねー」以上の議論が行われるようになると思うのですが。
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